昭和初期ごろの阪田三吉
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(田丸 昇:棋士)

8歳で将棋を覚え、たちまち上達

 伝説の棋士だった阪田三吉(贈名人・王将)は、映画や歌謡曲の主人公として将棋を指さない人にもよく知られていて、波乱に満ちた棋士人生を送った。

 阪田は1870年(明治3)に和泉国舳松村(現・大阪府堺市)に生まれた。8歳で将棋を覚えると、熱中してたちまち上達した。ただ両親は息子の将来を案じ、大阪の草履屋へ丁稚奉公に出した。将棋を忘れさせるためだった。その三吉は使いに出ると、町中の縁台将棋に加わって仕事を何度もさぼったので、暇を出されて実家に戻された。

 16歳のときに父親が亡くなり、一家の中で唯一の男手の三吉は家業の草履職人を継いだ。ただ仕事に身が入らず、大阪に出かけては賭け将棋をよく指した。やがて、関西では無敵の存在になっていた。

 阪田は20代前半の頃、全国を遊歴していた若手精鋭の関根金次郎四段と対戦する機会があったが、敗れて「井の中の蛙」ということを思い知らされた。

 それから10年後、阪田は関根八段に勝利寸前まで追い詰めながらまたも敗れると、妻のコユウ(後年の映画では小春)に「わいは今日から、ほんまの将棋指しになるで。日本一になったる」と宣言した。ただ安定した収入がなくて生活は困窮していた。前途をはかなんだコユウが鉄道の線路上を3人の子どもとさ迷い、心中を思いつめたこともあった。

 阪田は1913年(大正2)に上京して高段棋士と対戦し、独自の力将棋で奮闘した。関根にも平手戦(ハンディなし)で初めて勝った。15年には45歳で八段に昇段した。当時の最高段位である八段は、関根、井上義雄、阪田の3人だけ。その後、阪田は関根と井上に勝ち、次期名人の有力候補となった。しかし、17年に関根の弟子の土居市太郎七段に敗れる不覚を取り、結果的にその敗戦が響いた。