「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」展示風景。フィンセント・ファン・ゴッホ《画家としての自画像》1887年12月-1888年2月、パリ ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
(ライター、構成作家:川岸 徹)
フィンセントの死後、弟テオとその妻ヨーが受け継いだ作品を中心に、巨匠ファン・ゴッホの足跡を辿る展覧会「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が東京都美術館で開幕した。
“売れ残った作品”はどうなったのか?
現代では世界中で絶大な人気を誇るフィンセント・ファン・ゴッホだが、生前は評価されることなく、「生前に売れた絵はたった数枚だけだった」とも言われている。それでもフィンセントが画家として生涯を全うすることができたのは、家族の尽力があったからにほかならない。
パリで画商をしていた弟のテオドルス・ファン・ゴッホ(以下テオ)は、生涯にわたって兄を励まし、支援を続けた。数多くの手紙をやり取りしたことでも知られ、フィンセントがテオに宛てたものが658通以上残されている。フィンセントにとって弟テオは、すべてを打ち明けられる最大の理解者であった。
フィンセントは1890年、37歳の若さで逝去。そのわずか半年後に弟テオも、後を追うように亡くなってしまう。テオが残したフィンセントの作品群は、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル、通称“ヨー”に受け継がれる。ヨーは義兄にあたるフィンセントの作品を世に送り出し、画家として正しく評価されるように奔走した。
莫大な数の絵画を美術関係者や画商に見せ、販売し、展覧会に作品を貸し出す。残された手紙を整理し、1914年には最初の書簡全集が刊行された。ヨーの戦略的ともいえる“売り出し”により、フィンセントの名は高まり、作品の値も跳ね上がっていった。
そうした状況はヨーにとって喜ばしいことであったが、同時に寂しさも覚えた。1924年、ヨーは長く自宅に飾っていた《ヒマワリ》をロンドンのナショナル・ギャラリーに売却。彼女はその時の思いを、「フィンセントの栄光のための犠牲」と書き残している。
テオとヨーの息子であるフィンセント・ウィレムは、これ以上コレクションを散逸させないためにフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立。フィンセントの作品をまとめて公開する美術館の開館を目指した。1973年、その思いは国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)設立という形で結実。同館は膨大な作品や書簡を所蔵するとともに、ファン・ゴッホ研究のハブとして世界的に知られている。