国連は1947年11月、「パレスチナ分割」を決議しました。ユダヤ人とアラブ人の2国家を建設し、エルサレムは国際管理とする内容です。
翌1948年にイスラエルは決議を受け入れて一方的に独立を宣言。パレスチナ側は不公平だとして決議を拒否し、第1次中東戦争が始まりました。その結果、イスラエルが大半の土地を支配し、70万人ものパレスチナ人が難民になりました。さらに1967年の第3次中東戦争でイスラエルはヨルダン川西岸やガザも占領しました。その状態がいまも続いています。
狭い難民キャンプに押し込められたパレスチナ人たちにとって故郷への帰還が悲願となりました。アラファト議長に率いられ、国連で唯一正当な代表と認められたパレスチナ解放機構(PLO)も、パレスチナの全土解放を目標に掲げました。パレスチナ全土の解放はイスラエルの壊滅を意味します。
「2国家解決」の厳しい現実
歴史的な転機は1988年11月15日に訪れました。PLOのアラファト議長がパレスチナ国家の独立を宣言したのです。1947年の国連の分割決議に従い、イスラエルとの2国家共存を目指すものでした。国際的な支持を集め、1988年末までにアラブ諸国をはじめ、アフリカ、アジア、南米などの78カ国がパレスチナ国家を承認しました。
PLOの方針転換は、前年に始まった第1次インティファーダ(民衆蜂起、1987~1993年)が大きく影響しています。圧倒的な軍事力を誇るイスラエル軍に対して、若者たちが占領政策への不満を爆発させ、投石などで立ち向かったのです。連日、大勢の死傷者を出しましたが、パレスチナ人の苦境は広く世界に伝わりました。
PLO指導部も「パレスチナの全土解放」という原則論に縛られず、イスラエルとの共存を意味する「2国家解決」という現実的な方針を取らざるを得なくなったのです。
和平交渉による「2国家解決」の方向性をさらに確固としたのが1993年のオスロ合意でした。
ノルウェーのオスロでイスラエルとPLOが秘密裡に会合を重ね、パレスチナの暫定自治に合意したのです。これによりパレスチナ自治政府が誕生し、段階的にパレスチナ国家の建設を目指すことになりました。米国のクリントン大統領の前で、イスラエルのラビン首相、アラファト議長が握手したシーンは当時、世界史の転換を思わせる大ニュースとなったのです。
イスラエルのラビン首相(左)とPLOのアラファト議長(右)が握手したオスロ合意。中央は米国のクリントン大統領=1993年撮影(写真:ロイター/アフロ)
憎しみをぶつけあい、血で血を洗う争いを続けてきたイスラエルとパレスチナがついに「2国家解決」に向けて動き始めました。のちにイスラエルのラビン首相、ペレス外相、アラファト議長の3人はそろってノーベル平和賞を受賞します。「2国家解決」への期待が一気に高まり、さらに20近い国々がパレスチナ国家を承認しました。