佐伯城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、大分県佐伯市にある佐伯城を紹介します。
洗練された石垣の山城
国木田独歩(1871〜1908)の作品に「春の鳥」という短編小説がある。
障碍をもったある少年が、城の石垣から人知れず墜落死していたという話で、現代人の感覚からするなら差別表現が気になりそうな文章だが、何せ明治35年(1902)発表の作品である。明治の知識人たちが、日本に近代文学を打ち立てるべく試行錯誤する中で自然主義文学を志向した作品、という前提を理解して読む必要がある。
それはともかくとして、「春の鳥」の舞台となっているのが、大分県の佐伯城だ。作中に城名は明記されていないけれども、独歩が佐伯で教職に就いていた折の見聞に基づく作品なのである。
佐伯城中心部の石垣。画面左奥のあたりが天守台でその手前が堀切となっている
佐伯城は、一般にはさほど知名度の高い城ではない。というか大分・宮崎の両県、昔の国名でいうなら概ね豊後・日向の地域は、城に関しては少々地味な印象がある。これは、この地域が置かれた歴史的状況によっているのだろう。
江戸時代の九州には、薩摩の島津(73万石)、肥後の細川(54万石)、肥前なら鍋島(36万石)、筑前には黒田(43万石)といった具合に大藩がひしめいたいたが、豊後・日向は3万石〜7万石の小藩ばかりが長屋のように並んでいた。
国木田独歩もくぐったはずの三ノ丸櫓門。かつては山麓御殿の正門であった
戦国時代の豊後には大友宗麟という有力大名があったものの、島津氏の北進によって圧迫され、豊臣政権下で没落してしまう。その島津氏も、豊臣秀吉の九州制圧によって薩摩・大隅に押し下げられ、空白地帯となった豊後・日向はいくつにも分割された。おかげで、九州の東海岸は小藩長屋のようになったわけである。
ただ、小藩が並んでいるということは、近世城郭もずらりと並んでいるということだ。北から杵築城・日出(ひじ)城・大分府内城・臼杵城・佐伯城・延岡城・高鍋城・佐土原城・飫肥(おび)城といった具合で、いずれも天下の名城というわけではないけれど、なかなかに個性的な城が揃っている。このあたりは海の幸や日本酒・焼酎にも恵まれているから、「日豊本線ぶらり城めぐりの旅」など企ててみると楽しいだろう。
内側から見た三ノ丸櫓門。なかなか個性的な形状の櫓門だ
さて、それら諸城の中で、小粒でもピリリと辛いのが佐伯城である。事実、この城は城郭研究者の間では注目度も評価も高い。佐伯城を訪れると、まず目に付くのが三ノ丸に現存する櫓門だ。なかなか立派で、大分県下に唯一現存する城門建築でもあるが、佐伯城の本領は背後の山上に累々と残る石垣の方だろう。
山上に残る二ノ丸虎口。ここを入るといよいよ城の中枢部だ
佐伯城を築いたのは、毛利高政という武将である。毛利といっても、中国地方の毛利氏の一族ではなく、高政は尾張の生まれで、秀吉の子飼いとして数々の作戦や築城に従事している。秀吉が天下を統一すると、2万石を与えられて豊後日田に入り、関ヶ原ののち当地に転じて佐伯城を築いた。
そんな人が、そんな事情で築いた城だから、コンパクトではあるが凝集度の高い縄張となっている。豊臣系城郭の到達点のような趣さえあって、ここに、こんなにも洗練された石垣の山城があるんだ、と研究者たちを唸らせているのである。
本丸から北出丸を見る。通路が複雑に屈曲している様子がわかる
毛利高政は、武将としてさほど大成したとはいえない人ではあるが、佐伯城というすぐれた城を残し、子孫も大過なく明治まで13代続くことができた。小さな大名家の小さな城にも、小さいなりに物語があって、蓋を開けてみれば面白さが詰まっている……そんなことを実感させてくれる城である。
北出丸から食違い門跡と本丸の石垣を見る。この石垣は魅力的である








