現熊野本宮大社 撮影/倉本 一宏(以下同)
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。
熊野詣の起源となった宇多の参詣
法皇となった宇多は、東大寺(とうだいじ)・金峯山(きんぶせん)・高野山(こうやさん)・竹生島(ちくぶじま)・延暦寺(えんりゃくじ)・薬師寺(やくしじ)・熊野社(くまのしゃ)・石山寺(いしやまでら)・春日社(かすがしゃ)など各地に積極的に御幸を行なった。ここでは延喜(えんぎ)七年(九〇七)の熊野御幸における醍醐天皇の日記を並べてみよう。なお、熊野詣は熊野三山に参詣して現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)・延命長寿(えんめいちょうじゅ)などを祈ることで、宇多の参詣がその起源とされる。
延喜七年十月二日。(『扶桑略記[ふそうりゃっき]』『西宮記[さいきゅうき]』による)
仁和寺太上法皇(にんなじだいじょうほうおう/宇多法皇)が、紀伊(きい)国に御幸し、熊野山に参られる。勅使右近中将(藤原)仲平(なかひら)朝臣を遣わして、道中を問い奉る。法皇の御幸に供奉し奉らせる為に、使を遣わして、参議(源) 昇(のぼる)朝臣を召した。
熊野御幸に供奉させるため、醍醐は源昇を呼び出した。昇は嵯峨皇子の源融(とおる)の次男である。嘉祥元年(八四八)生まれ。生母は不明。この年、六十歳。当時の六十歳といえば立派な老人で、さすがにこの年齢で、都人から見たら異界に感じられたであろう熊野まで供奉するのは、無理があったのであろう(ちなみに宇多は四十一歳)。
延喜七年十月三日、丁未。(『扶桑略記』による)
昇朝臣が奏上させたことには、「昨日、途中で馬に踏まれ、足の上が腫れて、参入することができません」と。勅して宣したことには、「仲平朝臣に命じて、法皇の御幸に供奉させるように」と。穀倉院(こくそういん)の綿三百屯(とん)と調布(ちょうふ)二百端(たん)を、法皇が紀伊国に御幸する費用に充て奉った。
昇は馬に足を踏まれて参入することができないなどと、見え透いた言い訳をしてきたので、醍醐は仲平に供奉を命じている。また、道中の費用を支出するよう命じた。法皇の御幸ともなれば、これだけの出費が必要なのである。後の花山(かざん)院とは異なり、宇多は実際に熊野に参るのである。
なお、宇多に供奉した仲平は、十七日に上京して、醍醐に復命した。「法皇は、去る十一日に、切尾湊(きりおのみなと)から舟に乗られ、熊野神社に赴き向かいました。その日、道中の様子を報じるために、仰せが有って還(かえ)って来ました。但し、伝え聞いたことには、『進まれていらっしゃる道中は、海に浮かび、山に添っている。その路は甚だ難路である』と云うことでした」と。
熊野路が整備された院政(いんせい)期以降とは異なり、熊野までは平安貴族の想像を絶する難路だったことであろう。当時は参詣者もまだ稀だったはずである(『三宝絵詞[さんぼうえことば]』)。仲平が途中で帰ってきたのも、わからないではないが、それにしても宇多の執念はすさまじいものである。
延喜七年十月十八日。(『西宮記』による)
伊勢神宮(いせじんぐう)・賀茂上下社(かものかみしもしゃ)・松尾社(まつのおしゃ)・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)・春日社・平野社(ひらのしゃ)・住吉社(すみよししゃ)・日前社(ひのくましゃ)といった神々を遥拝(ようはい)して、法皇の道中の平安を祈った。この日、河内守安世(やすよ)王を蔵人所に召し、(藤原)菅根(すがね)朝臣を介して、太上法皇が還御(かんぎょ)する時、供奉の欠怠(けったい)の状況を勘申(かんじん)させる。・・・
宇多の安否が心配な醍醐は、さまざまな神社に祈願を行なった。やはり父子というものであろう。日前社が含まれているのは、紀伊国に鎮座しているからである。
また、還御の時に供奉を欠怠する官人を召問(しょうもん)させるよう命じている。宇多の方は十月二十八日に帰京し、仁和寺に入った。なお、この後、宇多の熊野詣に関する記事は見られない(倉本一宏『平安時代の男の日記』)。
あの源昇などはどうなったのであろうかと思うと、別に咎められた様子はなく、翌延喜八年(九〇八)に中納言、延喜十四年(九一四)に大納言に昇任して源氏長者(げんじちょうじゃ)となり、融から受け継いだ河原院(かわらのいん)を宇多に献上して「河原大納言(かわらだいなごん)」と呼ばれた。
河原院故地
ちなみに、昇の子のうち、仕(つこう/任[まかす]とも)は、十世紀初頭に権介(ごんのすけ)として武蔵(むさし)国に下向し(『扶桑略記』)、任終後は足立(あだち)郡箕田(みだ)郷(現埼玉県鴻巣市箕田)に土着して、私営田領主となった。延喜十九年(九一九)に武蔵守高向利春(たかむこのとしはる)と対立し、官物(かんもつ)を運取し官舎を焼き払って、さらに国府に襲来して利春を攻めようとした。受領(ずりょう)である利春の苛政(かせい)に対する前任国司仕の抵抗事件であったものと思われる。後世、難波を地盤とする渡辺党や肥前を地盤とする松浦党の祖とされた(倉本一宏『公家源氏』)。








