美濃赤坂の御茶屋屋敷跡 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は将軍専用の「御茶屋」を解説します。
幕府公設の「茶屋」
「茶屋」という言葉には、いろいろな意味がある。行楽地で一服して団子などを頬張るお店や、街道沿にある峠の茶屋のたぐい。花街の待合茶屋や、引手茶屋など。興味のある方は、いっぺん辞書で「茶屋」の項目を引いてみると楽しいだろう。
色香漂う金沢の茶屋町
一方で江戸時代には、普通の辞書には載っていない「茶屋」も存在した。といっても別にアングラなお楽しみ施設ではなく、それどころか幕府公設の「茶屋」である。正確には「御茶屋御殿」「御茶屋屋敷」といって、江戸時代の初期に存在した一種の城なのだ。
御茶屋御殿は、江戸・京都間の街道筋や南関東の各地に設けられた、将軍の宿泊休憩施設である。宿泊休憩用といっても周囲にきっちり堀と土塁を廻らせ、出入り口も枡形虎口になっていたりするから、知らない人が見たら、戦国時代のちょっとした平城か陣城(じんじろ)と思うだろう。いや実際、御茶屋御殿は陣城の一種と見なした方がよいのだ。
赤坂御茶屋屋敷に残る空堀と土塁。普通に城に見える
御茶屋御殿を理解するために、少し時代をさかのぼってみよう。天正10年(1582)、宿敵の武田氏を滅ぼした織田信長は、徳川家康の案内で旧武田領内を視察して回り、富士山の景色を楽しむなどしてご満悦であった。
このとき家康は、甲斐国内の数か所に信長を接待するための御殿を造営していたことが、『信長公記』に見える。武田氏を滅ぼしたばかりの甲斐国内は荒廃していたし、武田遺臣だって潜伏しているから、うっかりした場所に信長を泊めるわけにはいかなかったのだ。家康が用意した「御殿」とは、泊まり心地のよい陣城なのである。しかも、その信長は直後に本能寺で横死してしまうのである。
甲府市の河尻塚。武田氏討滅によって信長から甲斐に封じられた河尻秀隆は、本能寺の変後の混乱で地侍に惨殺された
家康は肝に銘じたに違いない……命が惜しかったら、うっかりした場所に泊まるものではないぞ、と。だから、征夷大将軍に任じられた徳川家の本拠地が江戸となった後も、京都における将軍の宿泊施設として、わざわざ二条城を築いたのである。
当然、江戸−京都間の道中も油断は禁物だ。徳川家の一門(親藩大名)や家臣(譜代大名)の城があれば、そこに入る。典型例が名古屋城で、この城の本丸御殿は城主の居住施設ではなく将軍の宿泊用であり、城主(尾張藩主)の御殿は二ノ丸に置かれていた。
名古屋城本丸は将軍のためのスペースだった。御殿は第2次大戦による空襲で焼失したものの現在は資料を基に復元されている
ただ、大名配置や地理の都合で、どうしても城と城との間があいてしまうエリアも出てくる。この空白エリアを埋めるための施設が御茶屋御殿で、相模の中原御殿(現平塚市)、美濃赤坂の御茶屋屋敷(現大垣市)、近江の永原御殿(現野洲市)などが知られている。
美濃赤坂は古来交通の要衝だった。家康は関ヶ原合戦の前日、この街道に接する丘の上に宿陣している
他にも南関東の各地には、鷹狩り用の御茶屋御殿が設置された。鷹狩りは単なる遊興ではなく、領内の巡察と領民に対する示威を兼ねた行事だったからだ。
鷹狩用のうち、もっとも残りの良い千葉市若葉区御殿町の御茶屋御殿は、120m四方を空堀と土塁で方形に囲んでおり、南北2箇所に開かれた虎口も枡形となっている。城内には主殿を中心に立派な建物が並んでいた様子も、発掘調査によって判明している。御殿の周囲には、家臣たちの陣屋も軒を連ねていた。
千葉市御茶屋御殿の空堀と土塁。家康は2回、秀忠は9回、家光は1回ここに逗留した
とはいえ、こんな施設を各所に維持してゆくのは、どう考えたってコストがかさむ。家光が寛永3年(1626)に上洛したのを最後に、将軍の上洛が行われなくなると、街道筋の御茶御殿は次第に建物が撤去されて、城地は幕府役人や諸藩の管理に委ねられていった。鷹狩りも下火となったから、関東各地の御茶屋御殿も1670年頃までには廃止された。
千葉市御茶屋御殿の入口。右手が千葉から東金に向かう御成街道で、ここから御殿正門までの180mの間に家臣たちの陣屋が建ち並んでいた
とどのつまり「御茶屋御殿」とは、徳川将軍家が武威をもって天下を圧していた時代の、行軍用宿営施設なのである。したがって、穏やかそうなその名とは裏腹に、平和な時代には無用の長物となるしかなかった。









