(3)PLOのテロ活動
しかし、パレスチナのアラブ難民の存在は無視されることになり、パレスチナ難民とパレスチナゲリラは激しく反発、パレスチナ解放機構(PLO)は激しいテロ活動に転換する。
しかし、PLOは次第に追いつめられ、その本拠をレバノンに移した。
1982年6月、イスラエルのベギン政権は、世界の目がイラン・イラク戦争や、フォークランド戦争に向けられているとき、パレスチナゲリラの対イスラエル・テロを根絶することを口実にレバノン侵攻を強行した。
これは第5次中東戦争と呼ばれることがある。
アリエル・シャロン国防相が指揮するイスラエル軍はレバノンの首都ベイルートなどを軍事占領、その結果、PLOはチュニジアの首都チュニスに撤退し、その力を大きく失うこととなった。
1987年にはイスラエルの支配するガザ地区でパレスチナ人の自発的な抵抗運動インティファーダ(第1次)が高まる中、PLOのヤーセル・アラファト議長は1988年に国連で演説し、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸とガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設することを中心としたイスラエルとの和平交渉に入ることを提唱した。
これはパレスチナにおけるに二国家共存をめざす、大きな転換であり、イスラエル側もその受容に傾いた。
しかし、1989年に始まる東欧革命は、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊をもたらし、ついには冷戦の終結宣言がなされるに至った。
これが中東情勢にも大きな影響を与えた。
1991年の湾岸戦争で米国軍を主体とした多国籍軍が侵攻し、勝利者となったことで、中東においても米国の主導権が強まり、それに対する抵抗の動きが新たな対立軸となっていった。
1991年の湾岸戦争で、イラクのサダム・フセイン大統領は、リンケージと称してパレスチナ問題と関連付け、アラブ諸国の同調を得ようとしイスラエルにミサイル攻撃を行った。
イスラエル軍がイラクに反撃すれば、フセインの思惑どおりアラブ諸国がイスラエルと米国連合との戦いに同調し、世界戦争に拡大する恐れがあった。
ここで、米国は強くイスラエルに自重を求め、イスラエルは反撃しなかった。
(4)オスロ合意とハマスの台頭
1993年にノルウェーの仲介でPLOとイスラエルの当事者間の話し合いが初めて行われ、中東和平に関するオスロ合意(注1)が成立した。
米国のビル・クリントン大統領のもとでPLOのアラファト議長とイスラエルのイツハク・ラビン首相(労働党)の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立。
1994年にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。
(注1)オスロ合意内容は次の2点であった。
①PLOはイスラエルを国家として認め、イスラエルはPLOをパレスチナを代表する自治政府として認める。
②イスラエルは占領した地域から暫時撤退し、5年間にわたりパレスチナの自治を認める。暫定自治開始3年目までに最終交渉に入り、5年後には暫定自治を終了する。
しかし、湾岸戦争での米国軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラム原理主義運動が盛んになり、PLOの和平路線に反発する新たな勢力としてガザ地区にイスラム原理主義ハマスが台頭した。
ハマスは、2006年1月にはパレスチナ立法評議会選挙で勝利して政権を握った。
ハマス内閣の発足後、ガザ地区ではハマスとPLO主流派ファタハ両派の治安部隊が散発的衝突を繰り返し、2007年6月には全面衝突に発展した。
パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長は、イスマーイール・ハニヤ首相を解任し、新内閣を組織したが、ハマスはこれを認めなかった。
こうしてパレスチナは、ファタハの支配するヨルダン川西岸とハマスの支配するガザ地区とに分裂してしまった。