野球振興のイベントの様子(写真提供:川上哲矢さん)
川上哲矢さんは東洋大を卒業後、2008年にセガサミーに入社して、硬式野球部のマネジャーとなった。当時は創部3年目で、グラウンドも寮もなかった。創成期ならではの困難や苦労を経験。14年間で、佐々木誠監督、西詰嘉明監督、初芝清監督、西田真二監督の4人を支えた。
後編では社会人野球のマネジャー業の真髄と、その経験が退任後に迎えた人生の転機でいかに繋がっていったのかを掘り下げていく。(佐伯 要:ライター)
【前編】「野球はビジネスや人生の縮図」、高1の夏に選手からマネジャーに転身した男が20年間、チームのために全力を尽くして学んだこと
社会人野球のマネジャーは「小さな会社の経営者」
社会人野球では、マネジャーは1人だけというチームがほとんどです。仕事は「ヒト」「モノ」「カネ」の管理。大学のマネジャーの仕事と似ていますが、予算の規模が1桁大きくなります。
会社によりますが、野球部の活動には年間で数億円のお金がかかります。マネジャーの役割は財務でもあり、広報でもあり、人事総務でもある。社内外のさまざまな人と関わり、交渉や調整をする。いわば「小さな会社の経営者」です。
そこで大切になるのが「先読み力」。予算やスケジュールは1年間の流れを先読みします。
年間で最も重要な大会は都市対抗野球大会です。その予選から逆算して、計画を立てて実行していく。その場しのぎでは十分な役割は果たせません。用具や備品の管理や調達、移動や遠征の手配、予算配分といったあらゆる仕事に対して、先手を打って進めていく必要があります。
私がセガサミーに入社したとき、まだチームはでき上がっていく途中でした。そのため、マネジャーの仕事は他のチームとは少し異なる部分もあったと思います。
2009年に東京都八王子市に野球場と寮が完成しました。それまでは練習する場所がなく、その日その日の練習場を確保するため、他の社会人チームのグラウンドや公営の球場を借りるのも私の仕事でした。
今日は千葉へ、明日は茨城へという生活。目まぐるしい日々を送りながら、ゼネラルマネジャーの撰田篤さん(当時)のもとで、マネジャーの仕事を一つずつつくり上げていきました。
最初は何をやっていいかも分からないまま、手探りで仕事を進める。そのたびに撰田さんに叱られる。そんな日々だったのを覚えています。