それでも万人がデジタル・サービスに連なる仕事をできる訳ではない。新興国と競争しなくてはならないモノの生産に携わる労働者もたくさんいる。

 そのため、このデジタル化の波に乗れた人、つまり勝ち組と、乗り遅れた人、つまり負け組との間に所得の格差が開き、負け組には当然不満が募る。それは、グローバリゼーションの担い手であり、勝ち組でもあるエリート層への反感の蓄積でもある。

 もう1つ明らかになったのは、グローバリゼーションによって経済力をつけた中国が、公然と米国への競争心を示すようになったことだ。ロシアもグローバリゼーションの過程で味わった苦労を、むしろ先祖返りの方向へのばねとするようになったようだ。

 こうした変化の中で、国内でのモノを造る力の低下が、国家としての弱さになるという認識が生まれた。軍事面での抑止力を維持するためにも、国内の製造業は一定の力を持つ必要がある。そういう思いが貿易収支の均衡という発想に繋がっているのであろう。

トップが替わっても米国の姿勢は継続か

 かくして「トランプ2」の下で米国は大きくその政策のあり方を変えている。先月このコラムで論じたように、そのこと自体は米国の民主主義の選択として出てきた変化である。その良し悪しをいくら遠くで論じていても、米国の民主主義が選択を変えない限り今の米国の姿勢は変わらない。

 米国の選挙民を納得させることができる今後の世界経済のビジョン、あるいは、これまでのグローバリゼーションではないという意味のデ・グローバリゼーションのイメージを示せなければ、米国の姿勢も変わらないだろう。トップはすげ替えられるのかもしれないが。

 翻って、日本の置かれた状況をみると、どう考えても、米国と全面対決するなどということは現実的ではない。したがって、現在のように、少しでも米国のスタンス変化による当面の日本経済への悪影響を最小化させる努力をすることがまずは大事だ。

 しかし、上述のような俯瞰が正しければ、それだけでは常に米国の最大の譲歩を引き出すことばかりに注力する国になってしまう。すでに述べたように、そもそも日本は米国とは違って、天賦の資源も乏しく、国民の勤労によって戦後80年でここまで来た国だ。多様性のある美しさと、四季の変化もある国土であるだけに、天災の被害もまた避けられない。