本当の「複合遺産」とは何か

 日本初の世界遺産の一つ「白神山地」(登録1993年、自然遺産)も、本来は“マタギ”と呼ばれる猟師たちの生活の場だった。奥深いブナの森で、マタギ小屋を作って拠点にしながら山菜やキノコを食べ、山の神に祈りを捧げてクマなどの獣を撃つ。しかし、世界遺産になったことで、登録エリア内での狩猟・採集は禁止された。入山規制もされ、青森県側は届け出制で指定ルートなら登れるが、秋田県側は原則禁止になった。

 青森県西目屋村で生まれ、マタギの家系で育った工藤光治さん(現在は引退、ガイド付きトレッキングツアーを提供する白神マタギ舎代表)は、2005年のTBS「世界遺産」の取材でこう語っている。

「世界遺産区域では、マタギの活動が全くできなくなった。熊狩りだけでなくて、ずっと核心地域の方までキノコ採りに行ったり山菜採ったりして、生活の足しにしていたけれど、それらができなくなった」

 ウィルダネスの思想に則って、ブナ林が育んできた文化は抜け落ち、原生状態に近いブナ林が広がる場所だけを“核心地域”に選ぶ。そして人手を加えず自然のままに委ね、利用せずに厳正に保存することが原則になったのだ。

登録エリア内での狩猟・採集が禁止された白神山地 らんで, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

「手つかずの自然」という理念に真っ向から異議を唱えたのが、カナダ先住民のアニシナアベ族である。それは、彼らが自然と共生しながら暮らしてきた土地「ピマチオウィン・アキ」(登録2018年、複合遺産)が世界遺産として推薦された際に、「自然と文化に切り分けて、別個に評価して欲しい訳でない」というもの。自然と文化という二つの価値でなく、人と自然の関わりを一つの“複合遺産”として評価すべきだという主張だった。

 世界遺産に登録されるためには1~10の評価基準があり、1~6の1つでも認められれば「文化遺産」、7~10の1つでも認められれば「自然遺産」になる。両方の基準を満たしているのが「複合遺産」だ。今、複合遺産は40件(日本は無い)と希少であるが、特に定義はない。例えば、1979年に最初の複合遺産となった中米グアテマラの「ティカル国立公園」は、マヤ文明の都市遺跡が文化遺産として、周辺の熱帯雨林が自然遺産として、両方の基準を満たすので、そう呼ばれるだけである。

「ピマチオウィン・アキ」は、アニシナアベ族の言葉で“生命を与えてくれる土地”を意味する。そこには4つのコミュニティがあり、7000年も前から伝統的な暮らしを営んできた。亜寒帯針葉樹の森は狩猟・採集の場であり、漁や儀式に行くため湿地や川・湖は水路で結ばれ、岩陰には30カ所も古い絵文字が残る。

 しかし2013年の申請時には、自然遺産としても文化遺産としても“顕著な普遍的価値”があるとは認められなかった。2017年には直前になって、もう一部族のコミュニティが脱退を決めたことで登録に失敗。翌年3度目のチャレンジでやっと世界遺産の仲間入りを果たすが、彼らの生活の場を一つの“複合遺産”として評価したのではない。

 かつて価値がないとされた自然と文化それぞれの、ただ評価を見直したのだ。カナダ初の複合遺産・登録は喜びにわくが、それは森を守るための結果オーライに過ぎない。

 1万年前に氷河が消えた後のカナダの大地や、祖先が刻んできた古代からの痕跡、アニシナアベ族の“土地を守る”という文化的伝統は、登録されようがされまいが昔通りに変わらない。自然からの贈り物を大切にして、あらゆる姿をした命を尊重し、他者との調和のとれた関係を続けてゆく生活を、彼らは「ジガナウェンダマン・ギダキイミナアン(土地を守る)」と呼ぶ。ピマチオウィン・アキはそれを体現している地であり、そう名付けられた言葉自体が祈りなのだろう。

 ピマチオウィン・アキでは、まだ雪が湖を覆っている初春に、湿地を人為的に焼き払う。そうすると、食料にするカモやジャコウネズミの生息地が豊かになる。アニシナアベ族が行う漁・狩り・罠による捕獲は、もはや生態系に欠かせない一部なのだ。

 世界遺産はこれを踏まえ、文化と自然の“関係性”をどのように評価し直すのか? 複合遺産という基準に一石を投じることになった。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)