赤レンガと瓦で葺いた三角屋根が青い海に映える旧野首教会 写真提供:(一社)長崎県観光連盟
(髙城 千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)
潜伏キリシタン関連がなぜ農村景観になった?
長崎県・佐世保港の沖合60km、高速船に乗れば1時間半で小値賀(おぢか)島に着く。この島を中心に大小17の島々からなる小値賀町は、五島列島の北端にあり、遣唐使の頃からアジア大陸と日本をつなぐ貿易船の寄港地だった。
この本島・小値賀島から2km離れた野崎島が、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(登録2018年、文化遺産)の一つで、島がまるごと「野崎島の集落跡」として登録エリアになっている。
ただ素朴な疑問がある。わが家にある辞書や日本史図録にあるのは「隠れキリシタン」で、「潜伏キリシタン」という言葉は出てこない。潜伏キリシタンとは何か?
1614年、キリスト教を脅威とみなした江戸幕府は禁教令を発布し、宣教師を追放した。弾圧が強まるなかで、表向きは仏教徒を装いながら、神父が不在でも信仰を守りつづけた信者が、北九州地方に多い「隠れキリシタン」である。
この呼称を世界遺産に向けて変えたようだ。禁教時代のキリシタンが“潜伏キリシタン”と称され、解禁後もカトリックに復帰することなく潜伏期の信仰を保っている人々を“かくれ(カクレ)キリシタン”として区別するようになった。
長崎県・世界遺産課はパンフレットで、「学術的」な呼び名を採用したと断りを入れている。かつては禁教期から現在までを総称した“隠れ”が、禁教期の“潜伏”と今につづく“かくれ”に変わった。“潜伏”に関わる物件を集めたため、登録は“かくれ”の存在を消したほうが通りやすいのだ。
野崎島に潜伏キリシタンが移住したのは、19世紀だと考えられる。辺境の地に逃れて隠れ住んだイメージが強いが、どうも違うらしい。五島列島への移民は、藩の開拓政策によるものだという。1797年、禁教がゆるく未開地に農民を送り込みたい五島藩と、弾圧が厳しい大村藩の思惑が一致して、百姓移住の協定が結ばれる。
そこには潜伏キリシタンを黙認していた側面があった。開拓民の大半は、長崎市街から北西に40km、五島を臨む灘に面した「外海(そとめ)地区」(出津集落と大野集落、2つが構成資産)のキリスト教徒で、手漕ぎ舟により命がけで渡った。
彼らは、沖ノ神嶋神社があり“神道の聖地”である野崎島で氏子として祭事に加わりながら、「絵踏」を行って信仰を隠し通した。そして、急斜面に石垣を積むことで芋や麦の畑地を切り開き、指導者の下にまとまる集落を構えたのだ。浜から山につづく石段は天国への道のようで、屋敷跡や墓地がコミュニティの存在を偲ばせる。
世界遺産はこうした17~19世紀の禁教期に潜伏キリシタンによって築かれた“農村景観”であり、村落にある解禁後の新しい建物は重要視されず、いわば風景の付け足しに過ぎない。小値賀町文化財課は、こう説明してくれた。
「野崎島の場合、教会は資産のエリア内に入っているが、教会が世界遺産とはいえず、世界遺産である集落の“シンボル”のような表現にとどめるのが相応しい」
段々畑の小高い丘にそびえる旧野首教会(現在は廃堂)は、赤レンガと瓦で葺いた三角屋根が青い海に映える。大工棟梁の家系に生まれ、後に「教会建築の父」と評された鉄川与助が最初に手掛けたレンガ造りで、和洋折衷のユニークな外観が風景に溶け込み、明治41年竣工とは思えない。見事の一語に尽きる。
また、野崎島には日本版ストーンヘンジと呼ばれる謎の巨石がある。それが王位石(おえいし)だ。沖ノ神嶋神社の裏にそそり立つ断崖を縁どるが如く、高さ24mもの石柱の上に幅5mのまぐさ石が乗っかり、まさに鳥居のような形状を生む。人工物なのか、自然が偶然につくり出したものか定かでないと聞く。
王位石がご神体となり、航海の安全を見守る神の島ゆえに、キリシタンが移住するまで暮らしが営めない霊地だった。2つの建造物、旧野首教会と沖ノ神嶋神社の価値だけで、ヨーロッパの教会や巨石文化に引けを取らないだろう。
では、なぜ潜伏キリシタン関連遺産は、農村景観になってしまったのか?

