小学生時代と編集者生活を通して一番うれしかった日
私(堀井)は昭和33年4月に小学校へ入学しましたが、これは長嶋さんの巨人軍入団と重なっていて、その後の6年間、小学生ながら長嶋さんの全盛時代を知るという幸運に恵まれました。
私を含め、同級生の男友達は誰もが長嶋さんに憧れるいわゆる野球少年で、若干の友達を除き誰もがサードの守備を希望、ユニフォームは着られなくても、「3」のバッジをYGマークの帽子につけ、長嶋さんになったつもりで少しでも長嶋さんに近づこうとプレーしていました。人気選手はほかにも若干いましたが、長嶋さんだけは別格だったのです。
低学年だったそんなある日、我が家に遊びに来た同級生が、長嶋さんの誕生日が2月20日であることを教えてくれました。
まあ、そのときの驚きというかうれしさは今でも忘れることができません。何しろ私の誕生日と同じだったのですから。365分の1の確率とはいえ、大ファンだっただけに長嶋さんへの私の想いはいっそう膨らんでいきました。
やがてスポーツ紙を購読するようになってから、毎年楽しみにしていたことがありました。2月20日の翌日のスポーツ紙に必ず掲載される、誕生祝いのケーキを前にした長嶋さんの笑顔の写真です。誕生日の翌朝、それを見て一人悦に入る自分がいました(笑)。
そして、今から40年以上前になるでしょうか、『月刊カドカワ』という文芸誌が角川書店から創刊されることになり、当時、非正規雇用の新米編集者だった私は、なんと創刊号の目玉だった「特別対談 プレイボールは華やかに 長嶋茂雄VS有吉佐和子」の対談現場に足を運ぶことになったのです。
長嶋さんを間近に見たのは子供の頃の巨人軍多摩川練習場と後楽園球場巨人戦観戦以来のことでしたが、なぜかそのときの映像記憶や話の記憶があまり残っていません。憧れのヒーローを目の前にして、新米編集者は極度に緊張していたのかもしれません。
「ヒトツ時代を振り返ってみますとですね、わたしにとっては、やはり、選手の時代が、いわゆる、ハッピーだったですね」という長嶋さんらしい表現によるコメントが創刊号の目次に掲載されています。
まだ非正規雇用者の待遇が正社員に比べて格段に悪いというブラックな時代でしたが、お金で買えない思い出を頂戴した気分で、編集者になってよかったなあ、という想いを強くしたものです。これも長嶋さんのおかげですね。