1939年8月、シュレージエンのノイハンマー(現ポーランド領シュフェントシュフ)演習場に、のちの軍集団司令部の基幹となる「ルントシュテット作業部」が設置され、マンシュタインとブルーメントリット、ついでルントシュテットが着任する。老練なるルントシュテット、参謀本部のサラブレッドであるマンシュタイン、俊秀ブルーメントリットは互いに信頼し合っており、三者の関係はきわめて良好であったという。

 1939年8月19日、ルントシュテットとマンシュタインは、ベルヒテスガーデンのヒトラー山荘で開催される会議に出席すべしとの指示を受けた。21日にはじまったこの会議には、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥も出席していた。

 そのいでたちに、マンシュタインも眉をひそめたようである。ゲーリングは、「フラットカラーの付いた白シャツに、大きな黄色い革製ボタンで飾られた緑の袖なし革胴着」、「太鼓腹には、ふんだんに金をちりばめた赤革剣帯が巻かれ、金の金具が打たれた赤革・幅広の鞘に収まった装飾用の短剣を下げ」て、仮装舞踏会に出席するかのごとき格好だったのだ。

開戦前にヒトラーが示した覚悟

 このような服装で重要な会議に出てくるとは。呆れたマンシュタインは、隣にいたハンス・フォン・ザルムート中将(やはりポーランドに侵攻する別の軍集団の参謀長に補せられていた)に耳打ちしてしまったという。

「あのデブはさだめし『会場警備員』の制服をお召しなんだろうね」(『失われた勝利』上巻)。

 マンシュタインはゲーリングによい印象を持っていなかったが、ここでもまた反感が上塗りされ、のちの両者の対立につながっていったかと思われる。

 かかる幕間劇はともかくとして、この会議でヒトラーが行った演説は深刻なものだった。彼は、戦争に訴えてでもポーランド問題を解決するつもりであると表明したのである。

 ただし、英仏が介入してくるかどうかについては、微妙なもの言いをしており、出席していた将軍たちの受け止め方もさまざまとなった。総統は西方諸国との戦争を覚悟している、あるいは英仏は介入しないと踏んでいるのだと、解釈が分かれた。