「砂の女王」ホクトベガ、ドバイに死す

 今回リバティアイランドが異国でのレース中に倒れ客死したことで、古くからの競馬ファンのみなさんは、1頭の牝馬を思い出されたかもしれません。

 今から28年前の1997年4月3日、ドバイで行われたワールドカップのレース中に競争中止して「予後不良」となったホクトベガです。

 ダートコースにめっぽう強く、後に「砂の女王」と称されるようになるホクトベガのレース人生は起伏に富み、劇的なものでした。 

 1993年1月にデビュー、ダートコースで3戦し2勝、2着1回。その後、芝コースで行われる牝馬クラシック路線を進みますが、桜花賞5着、オークス6着となかなか上位に食い込むことができませんでした。両レースの優勝馬は当時24歳で飛ぶ鳥を落とす勢いだった武豊を背にしたベガでした。

 秋になり、牝馬3冠目、最後のエリザベス女王杯でついにホクトベガが優勝、ゴールの瞬間、関西テレビの馬場アナウンサーは「ベガはベガでもホクトベガです。3冠ならずベガ。輝いたのはホクト(北斗)のベガです」と叫び、苦杯をなめ続けたベガ(3着)にホクトベガが一矢報いた勝利を印象深く伝えてくれました。

 しかし、その後の2年間、ホクトベガの成績は安定せず、20戦して3勝しか挙げられませんでした。ただし、その3勝目となったレースがホクトベガの新たな一面を大きくアピールすることになります。

 そのレースというのは、1995年6月に地方競馬の川崎競馬場で行われた「エンプレス杯」というダートコースのG1レースで、これまでのうっ憤を一気に晴らすような圧巻パフォーマンスを見せつけてくれたのです。

 ダート巧者の馬たちを相手に、なんと2着馬に3.6秒(約18馬身)という大差をつけて優勝、それも最後の直線で無理に追うことのない騎乗での着差でした。

 されど、このレース後も半年の間、JRAの芝コース重賞レースに挑み続けますが、惨敗も多く、ついに翌1996年から本格的にダート路線に舵を切り、快進撃が始まります。

 この年、ダートレースに8度出走し、どれも他馬を寄せ付けずに全勝。すでに彼女は7歳(旧馬齢)になっていましたが、遅咲きの能力が一気に花開いた年になりました。

 その余勢を駆って、翌1997年2月のG1川崎記念にも勝利、満を持して4月に行われるワールドカップ出走のためドバイへと旅立ちます。

 レースは後半、最終第4コーナーで後方にいたホクトベガが転倒、その直後に最後方にいた馬が激突しホクトベガが致命傷を負った様子は映像で見てとれます。ホクトベガの左前腕節部が複雑骨折している状態に「予後不良」と診断され、すぐに安楽死の処置が施されました。

 異国の都合上、日本へはたてがみだけの帰還となりましたが、ホクトベガは牝馬でありながら牡馬をなぎ倒す「砂の女王」として君臨し、ダートレースの魅力を日本中のファンに教えてくれました。

 さらに加えて、その功績は川崎・大井・浦和・船橋といったJRA以外の競馬場に多くのファンを集め、地方競馬の面白さとその存在を地方競馬ファン以外の人たちに知らしめてくれたことにあります。

 上記競馬場で行われるナイター競馬の開催日、ホクトベガもきっと夜空から後輩たちのレースを楽しんでいるに違いありません。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)