「こういうジャンボの顔は今までなかった」と馬場
これを受けて天龍は6月4日、名古屋でのオフ日にシャンピアホテルで阿修羅・原と会談を持った。
原は76年に日本人として初めて国際選抜メンバーに選ばれた名ラガーマンから77年11月に次代のエースとして国際プロレスに入団したが、国際は原がプロレスラーとして開花する前の81年8月に崩壊。同年10月から原は全日本所属になったものの、84年に失踪事件を起こし、85年4月からフリーの〝戦慄のヒットマン〟として全日本に上がっていた。
天龍が原に声を掛けたのは、自分が相撲から来てプロレスとのギャップに悩んだように、ラグビーからプロレスに来て芽が出るまでに時間を要した原に親近感を感じていたこと、今までと違うインパクトを出すには全日本のカラーに染まっていないパートナーが必要だったこと、そして「俺も阿修羅も、違う世界からここまでやってきて名前が残らないんじゃかわいそう。人間・嶋田源一郎、原進を大事にしたい」という思い。天龍の誘いに対して原は「誇りが持てるプロレスをやりたい」と言ったという。
かくして天龍と原は龍原砲を結成。天龍は「阿修羅とふたりで突っ走って、ジャンボ、輪島を本気にさせて、みんなに〝全日本は面白い!〟って言わせてやる」と高らかに宣言した。
「あの当時、いろいろなことを言ったと思うけど、心の中にあったのは〝ジャンボ鶴田は凄いんだよ、元横綱の輪島大士は捨てたもんじゃないんだよ〟ってこと。ジャンボがみんなの評価以上のものを持っているってことは身近にいた俺が一番知ってたから、他団体やファンにジャンボ鶴田の凄さと全日本プロレスの素晴らしさをわからせたかった。タイミングとしては、ジャンボが〝天龍とやってもいいか!〟って思うポジションに俺がきていたと思うよ」と、天龍は天龍革命の真意を語る。