5月13日は最強の日本人レスラーとも言われるジャンボ鶴田の命日。
鶴田が亡くなってから25年となる今年、大きな身体を活かしたプロレスでファンを魅了した鶴田の本当の強さ、そして時代を先取りした人生を送っていたジャンボ鶴田の人物像に迫る28万字の超大作『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』が発売される。
そこで今回は、発売記念として、全日本プロレスVSジャパン・プロレスの戦いでみせたジャンボ鶴田の圧倒的な存在感について特別に紹介する。(第9章「覚醒」より一部抜粋)
鶴田を長州より格上とした全日本
1985年に全日本プロレスはターニング・ポイントを迎える。それまでの全日本はジャイアント馬場の人脈でアメリカから超一流選手を招聘して力道山以来の日本人vs外国人という日本のプロレスの伝統的な図式を継承していたが、新日本プロレスのように日本人対決にシフトした。きっかけは前年84年6月に興行面のテコ入れのために新日本プロレス興行(以下、新日本興行)と業務提携したことだった。
新日本興行は前年夏の新日本プロレスの社内クーデターによって退社を決意した元営業本部長の大塚直樹氏以下、新日本の黄金時代に貢献した精鋭営業部員たちが設立した興行会社。当初は新日本の兄弟会社として古巣・新日本の興行を請け負っていたが「純粋な興行会社ならば、ウチの興行も手掛けてみないか?」と馬場が声をかけたのである。
この業務提携に新日本は態度を硬化させて、8月に新日本興行に契約解除を一方的に通知。大塚社長は「これからは業務提携している全日本さんの興行がさらに盛り上がるために新日本の選手を引き抜きます」と宣言したのだ。
その言葉通り、新日本の9月シリーズ終了翌日の9月21日に人気絶頂だった長州力、谷津嘉章、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇の維新軍団5人が電撃移籍したのを皮切りに、レフェリーを含めて13人が新日本を離脱して新日本興行入りした。
選手を抱えた新日本興行はジャパン・プロレスに社名変更。長州らはジャパンの所属選手として85年1月から提携する全日本マットに新天地を求めたのである。
当時のプロレス界は、84年からWWF(現WWE)がNWAやAWAのテリトリーに進出。各テリトリーのトップ選手を引き抜きながら全米侵攻を開始したため、NWA、AWAと密接な関係にある全日本にとって対岸の火事ではなかった。馬場は「ウチに来ているレギュラー大物外国人選手がWWFに引き抜かれたら、全日本の根幹が崩れてしまう」と危惧したに違いない。
そうした外国人招聘ルートへの不安と同時に、馬場自身が超一流外国人選手を主役にしていくことに限界を感じていたことも大きい。プライドが高い外国人が絡むと、どうしても両者リングアウト、反則絡み、時間切れ引き分けなどによって綺麗に決着がつくことは少なく、ファンの反応も鈍っていたからだ。
時代の流れの中で日本人対決に方向転換した馬場だが、当初は「レスラーの格を重んじる」という昔ながらの考え方は変わらなかった。
『週刊ゴング』の全日本担当記者だった私は、84年暮れの号でジャパンが参戦する85年1月シリーズの『激突‼オールスター・ウォーズ』のポスターを持ったジャンボ鶴田を撮影して「さあ、来い! 長州」と謳って表紙を作ろうと思ったが、全日本から「ジャンボと長州が同格だとファンに思われるような扱いは困る」という理由でNGにされてしまった。
つまり「AWA世界王者にもなっている鶴田は世界的なレスラーであり、長州より明らかに格上である」というのが全日本のスタンスだったのだ。
鶴田も全日本の方針に沿うように「僕の場合は長州だけに的を置いているわけじゃないから。いろいろな敵がいる中のひとりに長州も入ってきたという感覚で捉えていますよ」と、長州迎撃に熱くなる天龍源一郎とは対照的にクールなコメントを出した。

こうした流れで全日本vsジャパンは天龍と長州の抗争が核になった。全日本vsジャパン開戦となった85年1月シリーズは2~4日の後楽園ホール3連戦で開幕。天龍と長州は2日大会と3日大会はタッグマッチ、4日大会は6人タッグマッチで3日連続対戦した。
鶴田と長州は、後楽園最終日の4日大会で鶴田&天龍&ザ・グレート・カブキvs長州&キラー・カーン&アニマル浜口という形でようやく初激突。鶴田がフロント・スープレックスで投げれば、長州はサソリ固めの体勢に入るというスリリングな攻防が見られたが、両雄が肌を合わせたのは3回だけだった。
鶴田のクールな発言を意識してか、長州も「何て言うのかな、鶴田は俺や天龍とは人間のタイプが違うのかな……燃えているんだろうけど、天龍ほど感じるものがないね。やっぱり自分の気持ちは鶴田よりも天龍に向いている」と、ターゲットを天龍に定める発言。