5月13日は最強の日本人レスラーとも言われるジャンボ鶴田の命日。

 鶴田が亡くなってから25年となる今年、大きな身体を活かしたプロレスでファンを魅了した鶴田の本当の強さ、そして時代を先取りした人生を送っていたジャンボ鶴田の人物像に迫る28万字の超大作『永遠の最強王者ジャンボ鶴田 完全版』が発売される。

 そこで今回は発売記念として、ジャンボ鶴田と三沢光晴の師弟物語について紹介する。高校生の三沢に鶴田がかけた言葉、鶴田と対決することになった際の三沢の心境とは?(第11章「完全無欠の最強王者」より一部抜粋)

高校2年の三沢に鶴田がかけた言葉

 エルボーバット1発で鶴田を昏倒させた三沢は「俺を甘く見るから、ああいうことになるんだよ。鶴田さんは怒らせないと勝機が見えてこない。リングの上では親の仇のつもりで行く。いつまでも〝お山の大将〟でいたら危ないよ」と、厳しい言葉を発したが、三沢にとって鶴田は初めて付け人を務めた師匠的な存在だ。

 三沢が鶴田と初めて会ったのは、足利工業大学附属高等学校(現・足利大学附属高等学校)2年生の時の79年。当時の三沢はプロレスラーを目指してレスリング部に所属していたが、1日でも早くプロになりたくて高校の寮を抜け出し、当時は東京・六本木にあった全日本の事務所を訪ねて入門を直訴した。その時に事務所にいたのが馬場元子夫人、百田義浩、鶴田の3人だった。

「とりあえず高校だけは卒業してから来なさい。僕は大学を出てからプロレスに入ったけど、遅かったと思ったことは一度もないよ」

 鶴田にそう諭された三沢は高校に戻ってレスリングを続け、3年生の時には県高校総体フリースタイル75㎏級2位、関東大会同級2位、全国高校総体団体3位、10月の栃木国体では減量に苦しまなくていい階級のフリースタイル87㎏級で優勝を果たした。

 五輪代表候補として注目された三沢は4つの大学、自衛隊体育学校から勧誘され、特に熱心だった自衛隊体育学校から鶴田に「三沢を全日本プロレスに入れないでくれ」という電話も入ったというが、鶴田は「いや、全日本に来てくれてOKだから」と拒否。

 三沢は鶴田に言われたように卒業が決まってから全日本に改めて履歴書を送り、81年3月27日の後楽園ホールに呼ばれて馬場の面接を受けて正式に全日本入門を許された。

 当時、全日本には付け人制度がなく、馬場に越中詩郎が付いていただけだったが、デビューしてすぐの82年、カブキが「ジャンボと天龍は世間的に注目を集めているし、トップの選手が荷物持って歩いているのはカッコ悪いから付け人制度を復活させましょうよ」と馬場に進言。デビューしたばかりの三沢は、同じレスリング出身ということもあって鶴田の付け人になった。

「付いていたのは、メキシコに修行に行く前までだから1年から1年半ぐらいだね。鶴田さんは自分から飲みに行くってことをしない人だったから、やることと言えば洗濯ぐらいでね。接待とかあれば付いていったけど、飲み終われば〝じゃあ、帰ります〟って人だったから。ただほら、プライベートの鶴田友美という部分をあまり人に見せなかったから。俺にぐらいだったんじゃないかな、そういうのを見せたのは。あの人でも機嫌の悪い日があって、そうなると全然喋らなくなるからね。意外とキレると怖い人だし。でも、怒っているのを持続できない(笑)。それと鶴田さんのジョークはあんまり面白くなかったよ(笑)。俺にとっては兄貴のような、それでいて師匠のような存在。俺にとっては最初で最後の付いた人だからね。オフに美味しいものを食べさせてもらったり、そういう意味では夢を見させてもらったよね。〝レスラーをやっていれば、こういう店にも来れるんだ〟って、やっぱり俺に目を掛けてくれていたし、特別視してくれたと思うよね」(三沢)

 しかし付け人時代から8年の時を経て、三沢は時代の要請によって〝全日本の未来〟となり、大エースの鶴田を打倒することを決意したのである。

若手時代、鶴田の付け人だった三沢(写真左)