名脇役メイショウドトウとの死闘
オペラオーはその勝負強さから「5冠馬シンザンの再来」と称されたこともありましたが、そのシンザンが死亡するちょうど4か月前の1996年3月13日に誕生したのがオペラオーでした。
競馬ファンの間では、2000年に無類の強さを見せつけてくれたことから「世紀末覇王」と称されていますが、ゴール前でたびたび心臓を激しくドキドキさせてくれたので、個人的には「ゴール前の過激王(歌劇王)」と呼びたいですね。
そのゴール前の攻防で前述のごとく6度にわたりオペラオーと死闘を演じた名脇役、メイショウドトウ(以下、ドトウ)の名を忘れてはいけません。
ドトウはオペラオーが生まれた1996年3月13日の12日後に誕生している同期生です。ただし出世はオペラオーよりもさらに遅く、重賞レースに登場したのは2000年、4歳になってからでした。3歳クラシックレースに出走できなかったドトウはそのうっぷんを晴らすが如く4歳になってからG2、G1の常連となり、オペラオーの好敵手として台頭してきます。
2000年6月以降の古馬G1レースはオペラオーとドトウの2頭を中心に展開されます。宝塚記念から始まって秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念、すべてオペラオーが勝利し、先に記したわずかな差で2着にドトウが迫りました。どうしても勝てなかったドトウですが、翌年の宝塚記念で初めてオペラオーに雪辱、着差は1&1/4馬身でした。
「もしも」の世界は単なる夢想でしかありませんが、もしもオペラオーがいなければ、ドトウは6冠馬になる可能性があったのかもしれませんね。
オペラオーの引退式の日、その隣にはドトウがいました。2頭の合同引退式というJRAの粋な計らいにファンからは大きな拍手が送られ、それまでオペラオーの脇役に甘んじていたドトウでしたが、この日はダブル主演として輝いていました。
オペラオーを取り巻く周辺にはもう一つ物語がありました。馬主の竹園正継、調教師の岩元市三、そして騎手の和田竜二、この3者の絆を繋ぎ直すという役割もオペラオーが果たしてくれた仕事です。
竹園氏は「テイエム」の冠馬名で知られるJRAの馬主ですが、オペラオーを管理していた岩元調教師とは鹿児島県垂水町(現・垂水市)出身の幼馴染でした。
岩元調教師がまだ騎手だった頃の1982年、バンブーアトラスに騎乗してダービーを制覇、テレビ中継のインタビュー画面を偶然見かけたことが実業家として歩み始めていた若き竹園正継を発奮させ、馬主への道を踏み出させることになったのです。
二学年上の竹園は馬主として騎手時代の岩元をG1馬に騎乗させることはできませんでしたが、調教師転身後の岩元に自らの持ち馬を預け続け、後にオペラオーが登場する土台を作りました。
オペラオーが菊花賞で2着に惜敗した際、竹園は岩元調教師に騎手(和田竜二、当時22歳)の騎乗ミスを指摘し、交替を強く要請します。しかし、岩元は若い和田を育てたい一心から竹園を説得、その後もオペラオーの背には常に和田の姿がありました。
2001年12月末の有馬記念を最後にオペラオーは引退、生涯成績26戦14勝、2着6回、3着3回、着外3回、全レースに騎乗した和田竜二はこのとき24歳でした。
2018年、オペラオーが22歳で死亡した際、40歳になっていた和田は人生を変えた出逢いであるオペラオーを偲び、没後からひと月後のSNSにこう記しました。
──あなたのおかげでまだここにいます。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)