江戸城伏見櫓 撮影/西股 総生(以下同)
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JBpressで掲載した人気記事から、もう一度読みたい記事を選びました。(初出:2025年3月7日 ※内容は掲載当時のものです。)

(歴史ライター:西股 総生)

江戸城は「双頭の巨龍」

 江戸城といえば皇居であるが、皇居そのものは西の丸に宮殿(儀式などを行う建物)や宮内庁が、その外側にある吹上に御所が置かれていて、本丸・二の丸・三の丸の大半は「皇居東御苑」として一般に公開されている。

 東御苑への出入り口として開かれているのは、大手門・平河門・北拮橋(はねばし)門の3箇所で、ここで手荷物検査を受ければ原則、誰でも入ることができる。一方、皇居エリアの出入り口である西の丸大手門(皇居正門)や坂下門、吹上の乾門、半蔵門、三の丸桔梗門などは厳重に警備されていて、一般人は通常は出入りできない。

 では、なぜ皇居は本丸ではなく西の丸にあるのだろうか?

半蔵門は吹上御所の出入り口として厳重に警備されている

 この疑問に答える前に、知っておいていただきたいことがある。それは、江戸城が「双頭の巨龍」ということだ。

 立地から見ると、江戸城の本丸は、江戸湾(東京湾)に向かって北から張り出してきた台地の先端部に位置している。靖国神社や湯島天神、本郷の東京大学などが乗っている台地である。

 これに対して、西の丸は西から張り出してきた別の台地の先端部にあたっている。わかりやすくいうと、新宿方面から伸びてきた台地だ。この台地の先端は、本丸とは200〜300メートルくらいしか離れていないし、本丸とほぼ同じ高さがあるから、本丸を防備する上では都合が悪い。

 こういう場所は戦国時代なら、城攻めになった場合でも簡単に敵に占領されないよう、出丸などを築いて対処する。おそらく北条氏時代の後半には、出丸か外郭として防備が施されていたのだろう。それを徳川氏が近世城郭として整備してゆく過程で、西の丸として城域内に取り込んだのである。

吹上の巨大な水堀と土塁。土塁上部は石垣となっている(いわゆる鉢巻石垣)

 この西の丸、江戸時代には将軍を退いた大御所や、将軍のお世継ぎが暮らす御殿が置かれていた。また西の丸御殿には、本丸御殿が火事で焼けた場合の予備という役割もあった。江戸は火事の多い都市だったので、江戸城の本丸御殿もたびたび火災に見舞われていたからである。

 江戸城を「双頭の巨龍」と表現したのは、以上のような理由からである。けれども、それは西の丸が皇居となった「前提」であって、決定的理由ではない。西の丸が皇居となった決定的理由は、幕末から明治維新にかけて江戸城がたどった運命の中にある。