教養の本質は千年、二千年前の哲学や宗教思想に通じている。写真はイメージ(写真:TEEREXZ/Shutterstock.com)
目次

【前編から読む】
◎「教養」を身につける、とはどういうことなのか?学習・思考・実践――知の三段階が導く本質を考える

(堀内 勉:多摩大学大学院教授 多摩大学サステナビリティ経営研究所所長)

立身出世のような実利やインテリのたしなみのためではない

 前編で述べたように、人類が積み上げてきた知識を一旦自分の中に受け入れ、思考を重ねることによって自らのものとして、更にそれを実践することで身体知にまで高めていくのが、私が考える教養を身に付けるということです。

 これは、日本の武道や芸道で伝統的に説かれる修行の段階である「守破離(しゅはり)」にも通じるものがあります。つまり、どちらも最初は外から教えを受け入れ、次に自ら咀嚼・批判的思考を行い、最後に自分自身の存在としてそれを生きるという知の発展プロセスを示しているのです。

 もっと分かりやすく言えば、教養を身に付けるとは、実践に耐えうる「心の体幹」を鍛えるということです。人間としての土台の部分を構築する作業と言っても良いかもしれません。

 しかしながら、話はここで終わりではありません。

 以上は、どのように教養を身に付けるかという、いわばWhatとHowの部分で、その根底にあるWhyが問われなければならないからです。教養を身に付ける方法は分かったとして、その目的は何なのかということです。

 経営学者の野中郁次郎は、ビジネスリーダーが何を善として、どう社会に貢献するのかという志を持つことが、持続的な価値創造につながるとしました。これをビジネスに限らず、より幅広い視点から考えてみると、古代ギリシア以来の哲学の主題である「善く生きる」に行き着きます。

 教養というのは、立身出世や金儲けという実利のためや単なるインテリのたしなみではなく、「善い人生」=「幸福な人生」のためにあるというのが、私の結論です。

 そして、その先には自分を包摂する「善い社会」という大きな目的があるのだと考えています。この両者を結びつける鍵が、『道徳感情論』においてアダム・スミスが深く考察したような意味での「共感」です。