
フランシスコ教皇の死去を受けて、5月7日から次の教皇を選ぶ選挙「コンクラーベ」がバチカンで開かれる。焦点は、フランシスコ教皇の流れをくむ「リベラル」路線が続くのか、それとも移民やLGBTなどに厳しい「保守」に転換するのかだ。トランプ大統領の米国のみならず、欧州などで保守vsリベラルの分断が顕在化しているが、バチカンもそうした流れと無縁ではなさそうだ。
(楠 佳那子:フリー・テレビディレクター)
4月26日、88歳で死去したフランシスコ教皇の葬儀がローマ教皇庁のあるバチカンで行われた。イタリア内務省によれば、葬儀ミサが営まれたサンピエトロ広場および埋葬された教会への沿道に40万人以上もの人たちが詰めかけ、その死を悼んだ。
教皇は、14億人とも言われる世界のカトリック信者の頂点にありながら、教皇庁の様々な慣習を覆してきた。教皇に選任された際は高貴なケープをまとわず、白い司祭服で人々の前に現れた。リムジンではなく、コンパクトカーで移動した。死に際しても大仰でない、シンプルな木の棺を望んだ。
それまでの教皇が居住してきた豪華な教皇公邸ではなく、質素なゲストハウスで暮らし続けた。その理由は、大勢が集まる食堂などで、他者と触れ合い続けたいとの思いがあったのだという。
近寄りがたい威厳の象徴ではなく、特に弱い立場にある人たちに、言葉だけではなく行動で寄り添い続けた。教皇の人柄を最も如実に表した最近の例として、死の直前までイスラエルによる激しい攻撃の続くガザの信者などに、病の床についてさえ毎晩欠かさず電話をしていたことがある。
教皇は常にガザの人たちに心を寄せ、現地の信者らに頻繁に電話をかけていたという。その電話では、その日何を食べたのかを尋ねたり、外出した人が無事に戻ることができたかを何度も確認したりしていたとされる。こうした電話でのやり取りは、イスラエルによるガザ地区攻撃が始まった2023年10月から続いていた。教皇からの電話により、現地の人たちは自分たちが忘れ去られていないのだと勇気づけられてきたという。
教皇になって初めて訪れたローマ以外の土地は、欧州を目指す多数の難民が漁船での危険な船旅の末にたどり着いていた、イタリア最南端の島だ。そこでは世界の無関心を批判した。2度目の米トランプ政権における移民の強制送還政策についても、激しく非難した。