永遠回帰とポストモダンの相違
森:近代人は新しさを追い求めることに希望を見出してきました。
近代の先っぽのような21世紀でも、私たちは新しさを追求しています。では、その先に何があるのか。もっと経ってみないと分かりませんが、どこかへ行き着いたとしても、「結局は同じことの繰り返しだったよね!」という結論に回収される可能性があります。
一生懸命に目の前のことに励んで何かを創り出したり、成し遂げたりしようとする私たちを、あざ笑うかのような別の真実があるかもしれない。「永遠回帰」は、私たちに視点の転換を迫る哲学的な挑戦だとも言えます。
ツァラトゥストラにも近代人的なところがあり、永遠回帰を空しいと思い、途方もないやりきれなさから吐き気をもよおす。同じことの繰り返しは吐き気をもよおさせます。何の甲斐もないじゃないか、と。
ところが、いや同じことの繰り返しが大切で、永遠回帰にこそ意味があるのだという、ひっくり返ったものの見方にたどり着くという逆転劇が、『ツァラトゥストラはこう言った』の物語の筋にはあります。
──1980年代あたりから盛んに「ポストモダン」という言葉が流行りました。今でもときどき耳にします。ここには「すでに新しいものは出尽くした」「ここから先はすべて複製や反復でしかない」という意味も入っているように思います。
森:ポストモダンのルーツはニーチェにあるということはずっと言われてきました。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』でも、やはりニーチェが議論されています。
しかし、私は永遠回帰とポストモダンは別物だと思います。ポストモダン、つまり「モダンのあと」という概念の中には「これまでのものを乗り越える」という発想が、依然として残されているのです。
そもそも「モダン」よりも「ポストモダン」のほうが新しいというイメージで語られてきました。手をかえ品をかえ、新しさを演出することを免れないのがポストモダンです。永遠回帰はもっと古くてしつこい、人類の古層に埋め込まれた考え方で、なかなか卒業できないものだと思います。