
(ライター、構成作家:川岸 徹)
エコール・ド・パリの画家として、今も世界的な人気を誇る藤田嗣治(レオナール・フジタ)。藤田研究の第一人者として知られるシルヴィー・ビュイッソン氏の監修のもと、彼の画業を7つのテーマで読み解く展覧会「藤田嗣治 7つの情熱」が東京・SOMPO美術館で開幕した。
20世紀初頭のパリで才能が開花
おかっぱ頭に丸メガネ。時には女性もののブラウスを着用し、耳にはイヤリングが輝いている。「エコール・ド・パリ」に沸く20世紀初頭のパリの画壇に、ボヘミアンなスタイルで華々しく登場した藤田嗣治。彼は一躍“時代の寵児”となり、第二次世界大戦前のパリでは「フジタを知らないフランス人はいない」とさえ言われた。
彼のエキゾチックな風貌が注目を集める一因となったのは確かだろう。だが、何より藤田が生み出す芸術が素晴らしかった。藤田はパリのモンパルナスで暮らし、ピカソやモディリアーニら世界各国から集まった画家と交流を重ねながら、独自のスタイルを模索。風景、裸婦、自画像、猫など多彩なモチーフに取り組み、やがて藤田の代名詞ともいえる「乳白色の下地」の画風を完成させた。
こうして藤田嗣治はエコール・ド・パリを代表する画家となったが、その後の人生は「波乱万丈」と形容される。まずは藤田の人生を簡単に振り返りたい。
戦争に翻弄された波乱万丈な人生
1886年、藤田嗣治は陸軍軍医で将官である父・嗣章と母・政のもと、裕福な家庭に生まれた。幼い頃から画才を発揮し、家にあった葛飾北斎の浮世絵などを参考に創作に励んだ。1900年に中学に進むと、授業中に描いた絵が同年開催のパリ万国博覧会に出品された。その後、14歳だった藤田の目標は「パリへ行き、パリで一番の画家になること」になったという。
1913年、19歳の藤田は東京美術学校西洋画科へ進学。卒業後、写生旅行で知り合った登美子と結婚するが、新しい芸術を求めて単身パリへ。芸術家が多く暮らす街モンパルナスで創作活動に打ち込む。1917年にシェロン画廊で初の個展を開催すると、110点の作品は完売。ピカソは藤田の作品を見て、「数年後、藤田の絵はマティスと自分(ピカソ)の間に挟まって、壁に掛かることになるだろう」と絶賛したという。
藤田はパリで成功を収めた後、1933年に東京に戻った。5人目で最後の妻となる堀内君代と出会い、結婚。東京・麹町の京都様式の邸宅で暮らすが、1939年、戦意が高揚する日本を逃れ、再びパリへ。だがパリはドイツ軍の侵攻に脅かされており、藤田は翌年、日本へと舞い戻る。
第二次世界大戦が勃発し、藤田は海軍省に依頼されて15点の「戦争画」を描く。これが戦争協力と見なされ、終戦後に共謀罪に問われる。プロパガンダに関する責任を不当に非難する日本と縁を切りたい。そう願った藤田は1949年に出国。ビザ発給の都合で約1年間ニューヨークに滞在した後、パリへと帰った。
1955年、藤田は日本国籍を抹消し、フランス国籍を取得。1959年にはランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタに改名。藤田は生前、繰り返し「日本を捨てたのではない、捨てられたのだ」と、君代夫人に話していた。1968年、日本人として生まれた藤田嗣治は、フランス人として生涯を終えた。