福岡教授が「いのちの動的平衡館」で問うていること
福岡教授は「動的平衡」を提唱していることで知られている。
動的平衡とは、分解と合成を繰り返す中で保たれている平衡状態のこと。私たちの身体をミクロに見れば、組織や細胞を構成する分子は常に分解され、食べ物として摂取された新しい分子に置き換わっている。目に見える形で存在している「私」だが、その中身は数カ月前とは別モノ。絶えず入れ替わりながら平衡を保っている。
このように、分子の流れの中で一定の状態を保っていることが「生きている」ということ。私たちが「私」だと思っているものは一つの状態であり、明確な形があると思っているのは脳がそう意識しているからだろう。
同じ文脈で、私たちの記憶についても明確な何かがあるわけではない。脳の中にストレージがあり、古い記憶から順番に格納されているようにイメージしてしまうが、分子が高速で分解されている以上、記憶を司る分子のようなものは存在し得ない。
それでは記憶は何かと言うと、福岡教授によれば、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」だという。
神経回路は、経験や学習などさまざまな刺激と応答の結果として形成される。そうして形成されたさまざまな神経回路として残されており、ふとした刺激でかつての神経回路に信号が伝わる。それが、記憶の正体だと福岡教授は著書『動的平衡』の中で書いている。
「いのち動的平衡館」では、そんな動的平衡の考え方で捉え直した38億年の生命の歴史を32万個のLEDによって表現する光のインスタレーションが展開されている。
一つの細胞が分裂し、陸海空のさまざまな生き物につながっていったという生命史、そしてあらゆる細胞が他の細胞の一部となり、それが連綿と生命を紡いできたという生命の持つ利他性が光の粒子の点滅で表現されている。
今回のインスタレーションに込めた福岡教授の狙いは生命の利他性と死の重要性を広く伝えることにあるが、強く意識に残ったのは、生命は光の粒子(細胞)の集まりに過ぎず、自分を自分たらしめているのはあくまでも意識だということだ。
どこまでも個人的な感想だが、「いのち動的平衡館」は、生命とは何か、生きるとは何か、人とは何かということを改めて問う素晴らしいインスタレーションだと感じた。
そして、もう一つ印象に残ったのが、メディアアーティストの落合陽一氏が仕掛ける「null2(ヌルヌル)」である。