改憲派・護憲派という二項対立は意味がない

 改憲議論はつくづく無駄な政治課題だ。実現のための手間もコストもかかるし、そんなひまがあったら、ほかに優先して取り組むべき政治課題はいくらでもある。政治が取り組むべき喫緊の課題を自力で見つけられない能力不足の政治家が「やってる感」を演出するため改憲を叫んでいるとしか思えない。

 メディアの議論も雑に過ぎる。世論調査で「改憲に賛成か、反対か」という二項対立の質問を投げ、その回答だけで「改憲派が多数」と雑ぱくな議論を展開する。

「憲法が変わるなら中身は何でもいい」という愚かな発想の持ち主ならいざ知らず、憲法の「何を、どう変えて、どんな社会にしたいのか」を問うことなく「護憲か改憲か」で政党や政治家を色分けすることには、何の意味も感じない。

 昔の政治改革論議でよく聞かれた「改革派か、守旧派か」とか、最近野党周辺で聞く「減税を言わない政治家は増税派!」などもそうだが、雑ぱくな二項対立で政治を語るのは、本当にやめてもらいたい。 

 話が逸れてしまった。本題に戻る。

 憲法論議を「護憲か、改憲か」の二項対立で扱えたのは、55年体制だった昭和の時代、改憲のテーマが事実上「9条改正」に限られていたからだ。

 しかし、自衛隊の存在が国民の間で一定程度認知されるにつれ、9条だけで改憲の必要性や切迫性を訴えるのは難しくなり、55年体制の崩壊後は、改憲の論点は拡散していった。

「環境権」「プライバシー権」に始まり、今では「教育の充実」のように、現行法で対応できることまで改憲のテーマと化している。

 改憲の論点が拡散するにつれ、それぞれの論点が示している「その改憲が目指している政治や社会のありよう」に、明確な差異がみられるようになった。

 例えば、現在の改憲論議の主要テーマである「緊急事態条項の創設」は、緊急事態に内閣(首相)が、国会などの監視を受けず自由に権力を行使できるようにする狙いがある。

 これに対し「首相の解散権の制約」という改憲テーマは、逆に首相(内閣の長)が自分の都合で勝手に衆院解散という権力を行使するのを防ぐ狙いがある。「国の権力行使のありよう」という点で、両者は真逆の方向性を持つ。

 私たちはそろそろ「護憲か、改憲か」という雑ぱくな改憲論議を離れる必要があると思う。テーマを細かく「仕分け」して「その改憲でどんな社会を目指すのか」を冷静に議論し、その上で合意形成の可能性の有無を探るべきだ。