最低限の警護で行われた、11回のお忍び訪問
天皇がマッカーサーのもとに行くのはお忍びです。かつてのように、前後に車がついて厳重な警護のもと、沿道にはお巡りさんが立って、というようなことは一切なしで、天皇と侍従長が乗った車の後を、何人かの宮内省の人が乗った車が続きます。
私が「週刊文春」編集長の頃に天皇陛下の乗った車を運転した真柄梅吉さん(当時77歳)の回想を載せたことがあります。お忍びですから当然、交通信号に引っ掛かり、停車すると、後ろからやってきた都電も止まります。その前の方のお客さんが「天皇陛下に似ているなあ」とじっと眺めやってハッと気がついて最敬礼したなんて話もあったようです。
「宮城正門→二重橋→祝田橋ときて、桜田門交差点にさしかかったとき、信号は赤に代わった。予期していたから違和感はなかった。ただ、都電と並んで停車するので、なるべく都電よりにならぬよう注意しました。お上も視線は横を向いておられたが、お顔は前を向いていました。無言でした」
「たいてい秘密で、赤信号にもしばしば出会いましたよ。第4回(昭和22年)に三宅坂で停まったとき、通行人が気付いてお辞儀をしたのに、交番の警官はお上にお尻を向けたママでした。会見の間はマッカーサーの運転手とお互いの車を見比べたりしてましたよ。向こうはノークラッチのキャデラックで大変珍しいと思いました」
マッカーサーと天皇の会見は、合計11回行なわれました。もっとも最後の1回は、マッカーサーが日本を去る時の儀礼的な別れの挨拶だったので大したことはありませんが、全10回の重要な会談内容は、現在も公表されていません。これが明らかになるのが大変望ましいと思うのですが、そうしないというのが二人の約束なのだそうです。ただ、それとなく探っていくと、何回分かはだいたいわかってきます。今日は第1回についてお話しします。
内容は公表しないという「男の約束」だったが
内容は公表しないという「男の約束」を、昭和天皇は守りました。ところがマッカーサーのほうは、ちょこちょこ喋っているようで、その話がちょこちょこ入ってくるわけです。ただどれほど信用できるか、難しいという人もいます。一方、間違いなくそうだろうという説もあって、私はそう考えています。したがって、これからお話しするのは二人の第1回の会見内容と言っていいかと思います。
平成14年(2002)10月17日、外務省が天皇・マッカーサーの第1回会見の公式記録を公表しました。通訳として立ち会った奥村勝蔵さん──真珠湾攻撃の直前、ワシントンの在米日本大使館で、アメリカへの宣戦布告の書状をタイプでポツンポツンと打っていて間に合わなくなった当人です──が残した記録が新聞に大きく取り上げられたのです。
万博政府代表として記者会見する奥村勝蔵氏(1966年9月、写真:共同通信社)
これまでの基本となるのはマッカーサーの回想録にある記述で、そこでは天皇はマッカーサーにこう言ったことになっています。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行なったすべての決定と行動にたいする全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する連合国の裁決にゆだねるためにおたずねしました」