夏目漱石が見抜いていた偽善と露悪の入れ替わりサイクル
この価値観の転換について、実は夏目漱石が『三四郎』の中で見事に喝破しています。
〈近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある〉
〈昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない〉
この漱石の言葉で言えば、トランプは典型的な露悪家と言えるでしょう。そして漱石は、上記の引用のとおり、世の中は「偽善的社会」と「露悪的社会」の繰り返しだと説明しています。偽善的社会を今風に言えば、人権が大事、国際平和が大事、環境問題が大事、次世代のための財政規律が大切、といった考えが主流の社会です。やせ我慢をしながらも理想を追求しようとする偽善的価値観を貫き通そうとしても、いつかはその意地を張り通せなくなる時が来る。その時に出てくるのが「俺が俺が」の利己的な考え方で、これが主流になると露悪的社会となるわけです。
同時に、漱石は、露悪家ばかりになると互いに不便を感じてきて、極端に達した時に、また利他主義が復活すると言っています。それが世の中の流れだというのです。