「美しい国」だった日本にも
ほんの少し前までは世界の中でも露悪的な価値観は極めて特異なものでした。ところがここ10~20年でどんどん露悪的価値観が蔓延してきていて、現在は主流だった偽善的価値観と、徐々に広がり始めた露悪的価値観の間でメインストリームが入れ替わりそうな潮目に来ているように感じます。
そこでひるがえって我が国を見ると、少なくとも戦後の日本は「美しい国」だったと言えるでしょう。戦争への反省もあって、偽善かもしれませんが、「世のため人のため世界平和のため」を心に刻み、頑張る人が多い国でした。個人的に、途上国支援(ODA)を役人時代に担当することが多々あったこともありますが、日本は国際秩序の構築・維持に汗をかき、多額の資金を提供し、100点とは言いませんが、国内的にも、様々な方々の人権に配慮し、京都議定書などの形で環境問題にも目配せをし、また、大蔵省のエリート官僚などを中心に財政は次代のために極力抑制的にしてきました(結果としては、バブル崩壊後は諸外国と比べても極端に悪い財政状況ですが……)。私はそういう日本社会を誇りに思ってきました。
しかし日本にもどんどん露悪の波が押し寄せてきています。その典型が、やはり昨年の衆院選挙ではなかったでしょうか。
わずか7議席から28議席へと躍進し世間をあっと言わせた国民民主党の存在がクローズアップされた選挙でしたが、私はこの党はある意味で「露悪的」だと思っています。というのも、財政に関する主張を見てみると、財源不足については何の方策もないのに「次世代のためにとかではなく、カネがない人たちの税負担を軽くしろ。103万円の壁の撤廃だ」とアピールして、票を獲得したわけです。財源についてのアイデアを持たずに「税負担軽減」を主張するのは、次世代のことを何も考えていないのと一緒です。
こうした財政規律軽視、バラマキ推進のスタンスとは距離をおいて「身を切る改革」を主張した維新の会は議席も伸びず、低調でした。最近は維新も、教育無償化などの政策を全面に出し、今を生きる人たちに寄り添うという姿勢を明確にしつつあります。時代の流れには勝てません。
こういう状況を踏まえると、日本もついに偽善的社会から露悪的社会へ変わり始めているように思います。
しかし私はもう一度、日本の美徳を思い出したいと思っています。日本は世のため人のためという価値観が根強く、子や孫の世代、あるいは先祖、さらには世界の人々をも思いやることのできる「美しい国」だったはずです。確かにそれは偽善的だったかもしれませんが、真実とは結構歯切れが悪く、曖昧なものです。AかBかでぱっと割り切れるものではありません。
その曖昧さも含めて、他を思いやり、美しく生きるのが日本人の伝統であり美意識だったのではないかと思います。そこが外国から敬意を払われる部分でもありました。これが、分かりやすい合理主義や、行き過ぎた資本主義による損得勘定に飲み込まれてしまうのは、非常に残念です。日本人としてのアイデンティティの喪失ではないでしょうか。
偽善と言われようと、世のため人のため社会のためという精神は失ってはいけないものではないでしょうか。いよいよアメリカでは損得勘定で物事を考える“モンスター”が大統領になります。彼がこれから起こすであろうさまざまな波に日本人の価値観が飲み込まれないことを祈ります。