二流・一流そして大谷翔平のような超一流の違い

 まだ一流と呼ばれる域に達していない者は、日々ひたすら己の強みを磨くことに腐心し、格闘している。彼らのプレーは、本来、句読点が不要な位置にも「。」がついたり「、」がついたり、観る者にどこかギクシャクした印象を与える。

 その点、一流のプレーにはそういった不安定さがない。彼らは一つひとつの動作に「。」をつけずとも、ほぼ間違いのないプレーができる。だから、一流なのだ。

 ただ、その感覚を良しとして、ずっと句点のないプレーを続けていると、いつかどこかで必ずミスが起こる。

 なぜか?

 句点を意識していないということは、一つの動作を完了させる前に次の動作に移行しているということ。そこに落とし穴がある。

 一流だからこそ起こり得る、まさかのミスとも言えるだろうか。だが、それは決して「まさか」ではないということなのだ。

 はたして、「超」のつく一流はそこが違う。

 超一流の選手は、すべての動作に「。」をつけている。つまり句点を打って、次の動作に移る。

 にもかかわらず、まるで「。」など存在しないかのように、すべての動作がつながっているように見える。それが超一流の、超一流たる所以だ。

 別な表現をすると、「流れるようなプレー」と「流れるプレー」の違いと言えるかもしれない。

「流れるようなプレー」は、一つひとつの動作に「。」がついているのに、その区切りがないかのように映る美しいプレーの形容だ。流れる「ような」であって、決して流れているわけではない。これが超一流の技だ。

 一方の「流れるプレー」は、まったく似て非なる。一つひとつの動作に「。」がついておらず、プレーが流れてしまっている。一見美しく映えるが、実はいつミスが起こっても不思議ではない状態だ。

 侍ジャパンまで含めると約12年間の監督生活で、栗山はその違いを肌で感じていたのではないだろうか。

 中日ドラゴンズをリーグ優勝4回、2007年には日本一に導いた落合博満監督の、8年間の闘いを描いたノンフィクション『嫌われた監督』(鈴木忠平・著)の中に、印象的な記述がある。

いつだったか、休日のナゴヤドームで、私の隣にやってきた落合が放った言葉があった。
「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ」

「アライバ」と呼ばれた鉄壁の二遊間の一人、井端弘和(現・侍ジャパン監督)の足の衰えを、指揮官が看破したときのエピソードだ。

 落合は、毎日同じ場所から、同じ人間を見ることで、昨日と今日の違いを敏感に感じ取っていた。

 だとすれば栗山は、毎日同じ場所から、同じ人間を見ることで、一つひとつの動作に句点がついているかどうか、「。」がついているかどうかを確認していたのかもしれない。

 また、興味深いことに「。」をつけることができる選手は、勝手に自分で練習ができるという。

 勝手に練習して、勝手に成長して、どんどんうまくなっていく。

 それを確信させてくれたのが他ならぬ大谷翔平だったというのだが、その興味深いエピソードは前述の『監督の財産』に譲りたい。(文・伊藤滋之)

栗山英樹・著『監督の財産』
DHとして史上初、自身3度目となるMVPを獲得した大谷翔平に対して、18歳からWBCまでどう接してきたかをはじめ、栗山いわく「自身の失敗談」から学んだことが詰め込まれた監督生活の集大成。初の監督となった2013年のオフから綴られた現在に至るまで「そのとき」に記したことがそのまま収録される。