民進党のアイデンティティを覆すほどのインパクト

 1つは、国民党独裁による圧政の中で、民主化を目指し中華民国解体、台湾共和国建国を目標に誕生した政党・民進党が、中華民国の大陸における歴史も含めて今の台湾の歴史として語り、大中華思想的発想を掲げたからだ。これは民進党の本来のアイデンティティをひっくり返すぐらいの姿勢の転換だ。

 たとえば、国民党政権時代の学校の国史の授業では、中国大陸における歴史を教えていたのが、民進党政権になると台湾本土の歴史を国史とするぐらい、国民党と民進党の歴史観は異なっていたのだ。

 中華民国は1911年10月10日の孫文らによる辛亥革命、武昌起義から建国がスタートし1912年1月1日に、孫文が初代臨時大統領として南京で開国宣言を行った。同年2月12日、清朝の最後の皇帝溥儀が退位し、中華民国が中国大陸を代表する国家となった。

中国は、台湾・頼清徳総統の演説は「邪悪」と反発。記者会見する中国外務省の毛寧副報道局長(写真:共同通信社)

 その後の複雑な中国大陸における革命と軍閥割拠の歴史の説明は割愛するが、1919年に孫文が中華革命党を改組して再結成した国民党を孫文没後に受け継いだ蒋介石が北伐を完遂し中華民国統一を実現し初代総統となり、中華民国を第2次世界大戦では米英露と並ぶ四大国の1つとして戦勝国の地位にまでしたのだった。中華人民共和国は1949年に建国されるが、その国際的地位が中華民国にとって代わるのはさらに20年以上の後のことだ。

 中華民国は台湾人にとって中国大陸からやってきた外来政権のよそ者で、白色テロによって台湾人を苦しめ続けた独裁政権だ。民進党はこの独裁政権を打倒しようという運動の中から誕生した。

 だが国民党内に李登輝総統が登場し中華民国の民主化を実現。その後、民主的選挙により民進党が中華民国執政党になったとき、国民党の創った国家、憲法、国旗、国歌をそのまま引き継ぐ矛盾にどう折り合いをつけるかという問題に直面する。

 陳水扁政権は中華民国の呼称を台湾に置き換えていこうという正名運動を行い挫折、蔡英文前総統は公式の場でできるだけ中華民国という国名を使わないようにして、自然と台湾という呼称を一般化していこうとした。この過程で、「中国人ではなく台湾人」という台湾アイデンティティが確立していった。

 そういういきさつの中で、民進党の3人目の総統となる頼清徳が、「中華民国113歳・中華人民共和国75歳」とその建国の歴史を根拠に、中華民国台湾人にとって中華人民共和国は祖国になりえないと語った。このロジックは「台湾人は中国人ではない」という台湾アイデンティティを後退させかねないものだった。

 だが、一つの中国原則を捨てることができないまま現実とのギャップの中で、その国家観がまとめきれずにいる国民党の頭越しに、あっさり中華民国の歴史を受け入れるシンプルな立場は、政党間対立や、外省人、本省人だけでなく、中国、香港からの新移民も増えた複雑な国民構成を抱えた台湾社会の世論分断や対立をむしろ緩和に導き、団結を促進するものではないだろうか。