戦意高揚に利用されたハニワ

「ハニワと土偶の近代」展示風景

 美術品としての価値が先に認められたのはハニワ。1937年に日中戦争が始まると、日本では仏教伝来以前の「日本人の心」に源流を求めようとする動きが高まった。そのシンボルとされたのがハニワだ。

 素朴なハニワの顔は「日本人の理想」。詩人で彫刻家の高村光太郎はハニワの面貌に戦地へ赴く若い兵士の顔を重ね合わせ、「その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ」を賛美。考古学者の後藤守一は少国民選書『埴輪の話』のなかで、「ハニワの顔をみなさい」と呼びかけた。「子が戦死しても涙をこぼさない」ハニワの顔は、当時の軍事教育の理念にぴたりと一致したのだ。

 ハニワは日本人の理想の姿であり、万世一系の歴史の象徴。終戦前の歴史の教科書には古代の神々の物語が書き連ねられていたが、終戦後はGHQの意向によりそうした記述が削除される。いわゆる“墨塗り教科書”の誕生だ。

「ハニワと土偶の近代」展示風景

 黒塗りの箇所を埋めるために、刷新された新たな歴史の教科書には古代の神々の物語の代わりに、石器や土偶、ハニワといった出土遺物のリアルな写真が掲載された。特に大きく取り上げられたのが登呂遺跡。登呂は弥生時代の水田遺構であるため、武器の出土がない。日本が平和国家として再出発するのに、まさにぴったりのイメージだった。

 また、子供、女性、高齢者ら、社会的に弱いとされた立場の人々が参加した月の輪古墳の発掘事業も注目を集めた。日本の歴史は権力者のものではなく、民衆が編んでいくもの。月の輪古墳発掘の様子は映画化され、1954年に『月の輪古墳』のタイトルで公開されている。