(英エコノミスト誌 2024年9月28日号)
だが、破滅的で無意味な戦争から両者が得るものはない。
軍閥の首領が良心の呵責を覚えるという話はあまり聞かないが、ハサン・ナスララ師は2006年、1100人を超えるレバノン人が命を落とした戦争の数週間後に悔悟の念を示していた。
この戦闘の発端は、ナスララ師の率いるイスラム教シーア派民兵組織で政党でもあるヒズボラが越境攻撃でイスラエル兵2人を拉致したことだった。
同師はインタビューでイスラエルの反応の凶暴さに驚かされたと言い、襲撃したのが間違いだったとの認識を示した。
「あの作戦がこのような戦争につながると分かっていたら、私は作戦を実行しただろうか。いや、しない。絶対にしない」
今回は違うはずだった。
ヒズボラは2023年10月8日にイスラエルへのロケット攻撃を開始した。
その前日にパレスチナの民兵組織ハマスが1100人を超えるイスラエル人を虐殺したことを受け、イスラエルがガザ地区を爆撃し始めたことから、ヒズボラはガザ地区の支援に乗り出したのだ。
イスラエルがこのロケット攻撃に屈して戦争をやめることはなかったが、ミサイル防衛施設に兵士を配置することを余儀なくされ、6万人の一般市民が強制避難に追い込まれた。
二正面での戦いは避けたかったことから、イスラエル軍は射程の短いミサイルと空からの攻撃による同様な攻勢をするにとどめた。
両者ともこのような不文律を数カ月にわたって守り、対立をやめることもエスカレートさせることもしなかった。
ナスララ師の誤算
しかし、ナスララ師(編集部注:9月28日、イスラエル軍が殺害を認めた)は再度計算ミスをしてしまったようだ。
限定的な紛争にするはずだったのに、ずいぶん大きな戦いになった。
ここ2週間でヒズボラは40年に及ぶその歴史のなかで最も激しい打撃を受けた。ナスララ師はこの先どうすればいいのか分からず、途方に暮れているようだった。
イスラエルの戦術が変化し始めたのは7月、ヒズボラのフアド・シュクル最高軍事司令官をベイルートで暗殺した時からだ。
この暗殺は、イスラエルの占領するゴラン高原でヒズボラのミサイルにより12人の子供が死亡したことへの報復だった。
また、数カ月にわたって膠着していたように見えた紛争の流れを変えるチャンスでもあった。
ヒズボラは8月後半に反撃しようとしたものの、射程の長いミサイルは打ち上げる前にイスラエルによって破壊された。
イスラエルは9月17日、ヒズボラの戦闘員が利用していたポケベル数千台を爆破した。その翌日には数百台のトランシーバーも爆発させた。
計数十人が死亡し、数千人が負傷した。ヒズボラの通信システムも大打撃を被った。
爆破のタイミングは、完全にイスラエルだけの判断で決まったわけではないかもしれない。イスラエルのスパイが、ヒズボラはすぐにこの仕掛けに気づくと心配していたからだ。
だが、イスラエルによる暗殺は間を置かずに続けられた。ヒズボラの特殊部隊「ラドワン部隊」の司令官も犠牲になった。
そして、ヒズボラの牙城であるレバノン南部と同国東部のベッカーバレーが圧倒的な規模の空爆に見舞われた。
9月23日のイスラエル攻撃の第2波ではほぼ500人が死亡し、レバノンにとっては、長きにわたった内戦の終結(1990年)以降で最悪の日となった。
イスラエルは人の住まない地域のミサイル発射施設をもっぱら標的にしてきたが、今では村落や住宅の建て込んだ地区にある発射施設を攻撃している。