妥協を知らない完璧主義者

《椿図屏風》 昭和6年(1931) 絹本金地着色 2曲1双  千葉市美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

 だが、人生は思うようには進まない。一村の元に相次いで不幸が訪れる。19歳から27歳までの間に、一村は父と母、3人の弟を失う。絵の仕事も支援者の賛同を得られなくなり、「南画と訣別」すると宣言。新たな画風を模索し、意欲的に創作活動を行ったが、生活は徐々に困窮していく。

 30歳で母方の親戚を頼りに千葉市千葉寺町へ移住。以後約20年にわたって、畑で野菜を育て、鳥を多数飼い、内職をこなしながら、周囲の助けを借りて絵を描き続けた。

 そんな一村に一筋の光明が差し込む。40歳の時に川端龍子が主催した展覧会「第19回青龍展」に《白い花》を出品。みずみずしい青葉と輝くような白い花。生命感に満ちたヤマボウシが画面いっぱいに描かれ、その美しさに心がハッとさせられる。審査員からも高評価を得て、一村は公募展で初めての入選を果たした。

《白い花》 昭和22年(1947)9月  紙本砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

 この出来事が一村にとって大きな転機となるはずであった。だが、そうはならない。翌年、一村は「第20回青龍展」に《秋晴》《波》の2作品を出品する。《波》は入選するが、より自信があった《秋晴》は落選。その評価に納得がいかず、結局《波》の入選も辞退してしまう。

《秋晴》 昭和23年(1948)9月 絹本金地着色 2曲1双  田中一村記念美術館蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

 なんと、もったいない。でも、これが田中一村なのだ。自尊心の塊、妥協を知らない完璧主義者。世俗的な栄達とは距離を置き、全身全霊をかけて納得がいくものだけを描き続けた。一村はこんな言葉を残している。「私の死後、五十年か百年後に私の絵を認めてくれる人が出てくれば良いのです。私はその為に描いているのです」。