(ライター、構成作家:川岸 徹)
自らの芸術の探究に生涯を捧げた画家・田中一村(たなか・いっそん)。神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、画業の全貌を紹介する大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が東京都美術館にて開幕した。
生前はまったくの無名
「最後は東京で個展を開き、絵の決着をつけたい」。生前そのように語っていた画家・田中一村。近年の“一村人気”を考えれば嘘のように思えるが、生前はまったくの無名で、生涯に個展などの形で作品を発表する機会はなかった。
そんな田中一村の大回顧展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が東京・上野にある東京都美術館にて開幕した。実は上野は一村にとって縁の浅からざる場所。1926(大正15)年、一村は東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学するも、「家事都合」によりわずか2か月で退学。この年、東京美術学校の隣に東京都美術館の前身である東京府美術館が開館している。
戦後、一村は東京都美術館を会場にした公募団体展に何度も挑戦。だが、入選することはついになく、その後、終焉の地となる奄美へと旅立った。一村にとって因縁の地ともいえる上野、そして東京都美術館。大回顧展の場としてこれほどふさわしい会場はないだろう。
神童と呼ばれた幼少期
生前は正当な評価を得られなかった一村だが、才能を認められなかったわけではない。栃木県に生まれた一村は小さな頃から神童と呼ばれ、絵の才能を発揮。6歳で東京に移り、8歳の時に父から「米邨(村)」という作家名が与えられた。
展覧会には8歳の頃の作品がいくつか展示されている。《紅葉にるりかけす/雀 短冊》《蝉時雨》などを見ると、筆跡にはまだたどたどしさがあるが、植物や生き物の描き方に鋭い観察眼と卓越した描写力がうかがえる。
その後、一村は中国近代の文人画家による吉祥的画題の書画に学び、南画家として身を立てる。17歳にして『全国美術家名鑑』に名前が掲載。18歳の時には政財界人が発起人となり、作品の頒布会「田中米邨画伯賛奨会」が開かれた。まさに“スター街道まっしぐら”。一村の支援者は、明るい未来を思い描いていたに違いない。