鈴木が直面した「血の入れ替え」

 翌2013年、チームの都市対抗連続出場が12年でストップする。神長監督からチームを引き継いだ藪宏明監督に、「若手を育てるから」と正捕手の交代を伝えられた。三十代にはなったが、「まだまだやれる」という自信があった。とはいえ、チームとしては連続出場が途切れたこのタイミングで、一気に血の入れ替えを行う必要があることは理解できた。

 レギュラーを外れてからは、試合の出場機会はほとんどなくなり、他の捕手を使い切った後の守備固めや、延長戦になった時などに「任せるから」と言われて急遽出場するという起用になった。

 都市対抗予選で苦戦し、南関東地区の最後の出場枠である第3代表決定戦にまわった年がある。絶対に負けられない試合だけに、鈴木は「自分を出してください」と出場を直訴することも考えていたが、迷った末に思いとどまった。結局、最後まで出場機会はなく、チームは敗れ、都市対抗出場を逃した。

 鈴木は「監督も相当な覚悟だったと思います」と言う。「そこで勝ちたいと思ったら、僕を使うのは簡単なんです。でも、若い選手がそういう厳しい試合を経験して、その課程を活かしていかなくては、いつまで経っても一人前になれませんから。監督の判断は正しかったと思います」

 2015年から選手兼任コーチとなる。その年、同期の澤村は現役を退き、鈴木も翌年からコーチ専任となった。そして、その年限りでユニフォームを脱ぎ、社業に就いた。

 入社から14年間、野球に集中してきた人間にとって、社業はなかなか大変だった。

「そこはもう謙虚にやるだけです。年下の先輩にも頭を下げて教えてもらうし、部署によっては、野球が好きじゃない人もいる。『野球やってたからって関係ないから』と露骨に言われたりしますよ。でもそこは、言われないように自分が頑張るしかないですから」

 2020年、澤村が監督に就任することになり、「手伝ってほしい」とコーチ就任の要請を受けた。意気に感じ、「断る理由がない」と現場に復帰する。鈴木にとって、澤村は同期という以上の特別な存在だった。

 レギュラーとして試合に出始め、先輩たちから厳しく詰められていた時期。毎日延々と小言が続き、表情も沈みがちだった。いくら「謙虚に受け止めようとしていた」といっても、本心は苦しかった。そこで事あるごとに「大丈夫か」と声を掛け、励まし続けたのが澤村だった。いつか借りを返したいとずっと思っていた。今度は自分が支える番だと思った。

 高校1年生の時から甲子園で活躍し、大学、社会人と華々しいキャリアを持つ澤村は、現役時代から「いずれは監督になる」と言われていた。鈴木はもし現場にいなくても、その時が来たら精一杯応援するつもりだった。「澤村に恥をかかせるわけにはいかない」と、泥を被る覚悟も持っている。

「僕も心のどこかに『また戻れたらいいな』という気持ちがあったのかもしれません。野球も社業も、どちらも責任があって大変なんですけど、やっぱり好きな野球で悩むのは幸せなことなので。だから澤村には、また感謝しているんですけどね」と鈴木は笑う。

鈴木健司コーチの近影鈴木健司コーチの近影