変容してきた日米安保体制
2プラス2自体は、1960年の安保条約締結と同時に始まりました。すでに半世紀以上の歴史を持っています。米国側の出席者は以前、外交が駐日米国大使、防衛が太平洋軍(現・インド太平洋軍)司令官でしたが、日米同盟が深化し始めた1990年から閣僚級に格上げされました。
では、過去にはどのようなことが合意されてきたのでしょうか。
大きなものは「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」です。ガイドラインは日米の共同対処方針を定めた基本文書で、その時々の2プラス2の合意を経て改訂されてきました。
1997年の改訂では、日本周辺地域で有事が起きた際、日本は米軍のために物資の輸送・補給、空港・港湾の提供などを行うことで合意。米軍の活動をより積極的に支援することを決めました。18年ぶりだった2015年の改訂では、米軍に対する自衛隊の後方支援の範囲を日本周辺から「アジア太平洋地域およびこれを越えた地域」に拡大。それまで「極東」に限定していた制約を取り払い、地球上のどこでも米軍に協力する方針を整えました。
また、2017年にはミサイル発射を繰り返す北朝鮮に対し、協調して圧力をかけ続ける方針を確認。武力による威嚇は認めないとする強い立場を打ち出しました。
もっとも2プラス2は日米だけのものではありません。日本はこれまで、英国やオーストラリアなど約10カ国との間で外交・防衛の2プラス2を開いてきました。また、外務大臣と経済産業大臣による「経済2プラス2」なども開かれています。