それまで政治が被爆者を救おうとしなかったことも責めた。

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはいられない」

 国家賠償請求で、ここまで国と政治を糾弾した判決は当時から今に至るまで希有だ。ただし、判決は原告の請求を棄却している。原告の敗訴だった。やはり国の戦争責任と米国の原爆投下の罪を認めるのは難しかった。

原爆裁判判決のポイント(共同通信社)
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国を動かした原爆裁判の判決

 三淵さんは1979年に退官すると、過去の裁判について振り返ったが、原爆裁判については1度も口にしていない。国と米国に非があると分かっていながら、原告敗訴にせざるを得なかったのが悔しかったからではないか。

 もっとも、三淵さんたちの判決は国を動かす。この判決が契機となり、1968年に被爆者を救済するための「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定された。その後の原爆に関係する訴訟では原告側が国に勝訴した。三淵さんたちによる判決が影響した。オランダのハーグにある国際司法裁判所もこの判決を先例として扱った。

 戦前と戦後、寅子の恩師の明律大教授・穂高重親(小林薫)は自分の最高裁判事の退任祝いの場で「雨垂れ石をうがつ」(第69回)と言った。穂高の座右の銘なのだろう。雨垂れも長い時間落ち続けると岩に穴があく。大きなことが成し遂げられる。三淵さんは原爆裁判の判決に不満があったのかも知れないが、被爆者救済の大きな一歩となり、雨垂れ石をうがつとなった。