「原爆投下は国際法違反」

 実際の原爆裁判が提訴されたのは1955年。原告は広島と長崎の被爆者5人。国に賠償を求めた、三淵さんは右陪席の裁判官だった。口頭弁論は1960年から1963年まで行われた。

 原告の1人は被爆当時47歳だった男性で、被爆までは広島で自営業を営み幸せに暮らしていた。だが、原爆投下を境に運命は暗転する。

 原爆投下とほぼ同時に16歳の長女、12歳の3男、10歳の次女、7歳の3女、4歳の4女が爆死。40歳の妻と2歳の4男は命こそ助かったものの、重傷を負う。本人も重傷を負い、右手に障がいが残って、働けなくなった。一方で国による救済はないに等しい状態だった。

 判決は1963年12月7日に出た。東京オリンピックの前年である。

 まず「原爆投下は国際法に反する違法な戦闘行為」とした。広島には33万人、長崎には27万人の市民が暮らしていたのだから当然とはいえ、かなり踏み込んだ判断だった。原爆投下が国際法違反と認定されたのは初めてだった。

 判決は国の責任にも言及した。「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである」。厳しく断罪した。国の戦争責任をはっきりと認めた。