ドマジュリツェは1945年5月5日、プラハ蜂起に先立ちナチス・ドイツから解放され、町の中には解放に貢献したアメリカの国旗が施された記念碑が鎮座する。ドイツ国境まではわずか10キロで、多くの市民がドイツ語を解し、ドイツで働く人も少なくない。北口に会うため、この小さな町を訪れた筆者は、駅で家族を迎えにきていた地元の人に声をかけて中心部まで車に乗せてもらったが、その女性もドイツで働く一人だった。
北口がチェコを拠点にするきっかけとなる出来事は、大学時代に起きた。高校時代の輝かしい成績を引っ提げ、投擲に力を入れていた日本大学に鳴り物入りで入学し将来を嘱望されたが、やり投げを専門にしていた指導者が不祥事によって不在となった。部のメンバーと力を合わせて技術力を磨いたが、さらなる競技力向上のため、半ば一方的にコーチングを頼み込んだのが、やり投げチェコ代表ジュニア部門のコーチを務めるデイビッド・セケラックだった。
当時まだ世界的には無名だった北口は滞在ビザを取得できず、最初は観光ビザで認められる滞在日数の範囲内で調整しながら渡航し、練習した。チェコに渡ってしばらくは精神的な苦労もあったと言う。
「自分の名前が、仲間たちの会話の中に出るんです。チェコ語でみんなが話している中に私の名前が出てくるけど、良いことを言われているのか、悪口を言われているのかもわからなくて。それは結構ストレスというか、何言われているのかなって、ずっと気になっていました」
その後、チェコ語も勉強。今ではコーチとチェコ語だけで会話できるようになり、日本を含む国外への遠征以外は1年の半分近くをドマジュリツェで過ごす。
五輪でのメダルが期待される立場となっても、時折25歳の若者らしさをのぞかせる。町の中心部はヨーロッパの風情があふれるものの、若者向けのショッピングモールや、緑のロゴが有名なコーヒーチェーンなどもなく、北口が行くのはいつも同じカフェ。
「ずっと同じ空間で同じ生活だから、遠征でどこかに行っている時の方が気が紛れます。買い物とか、もうちょっと楽しめるところがあったらいいのになと思います。買い物はいつも、遠征から帰る時の免税店でしています」
柔軟性を活かしながら、筋力と走力アップに挑む
ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはかつて、「外国語を知らないものは、母国語を知らない」と言った。これは何も言語だけに限ったことではない。北口も海外での挑戦を続けたからこそ認識できた自分の強みがある。それは「柔軟性」だ。
北口は肩の可動域が広いため、助走で勢いをつけた後、腕をより後ろ側に残した状態から投擲動作を始めることができ、やりに力を伝える時間を最大化できる。この上半身の柔軟性は、世界でも自分にしかない強みだと気づいたという。
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