高校入学当時、身長が伸び盛りだったダルビッシュは成長痛と戦っていた。若生監督はそれを見越して無理なトレーニングをさせることはなかった。ダルビッシュは毎日、外野の芝生で横になって柔軟体操していたのだが、そのマイペースぶりを見ても、若生監督は口出ししなかった。

 ある意味、この自主性の尊重がダルビッシュを成長させたのではないかと思う。ダルビッシュは、口出しせずにじっと見守る若生監督の期待に応えた。

 入学からおよそ1年後の春の選抜大会に投手として出場し、3回戦まで進出。2年生として迎えた夏の甲子園では、決勝で常総学園に敗れるも、見事な準優勝を遂げた。「ダルビッシュ有」の名前は高校野球ファン以外にも広く知られる存在となった。

 高校2年の秋になると、監督はダルビッシュに主将を命じる。これは自主性に加え、チーム全体に対する責任感を持って欲しいという監督からのメッセージだったのだろう。


2004年3月15日、選抜高校野球抽選会で笑顔を見せる制服に坊主頭の東北高校「主将」ダルビッシュ(写真:共同通信社)

高校時代に迎えた「野球人生の危機」

 ところが、高校時代はすべてが順風満帆というわけではなかった。むしろ「薄氷の上の野球人生」と言っていいかもしれない。それの原因は野球以外の面にあった。

 高校時代のダルビッシュや若生監督を熱心に取材していたジャーナリストのA氏が打ち明ける。

「ダルビッシュが高校3年になるころ、知人の大手新聞記者から『こんな事実、知っているか』と電話がありました。ダルビッシュの弟が暴力事件を引き起こして少年院に入っている、というのです。実はそのことは知っていましたが、私は記事にはしていませんでした。というのもダルビッシュ本人ではなく、弟、しかも未成年が引き起こした事件です。報道するべきではないと判断したのです。記事になれば、もしかしたらダルビッシュの将来に影響を及ぼすこともありうる。それがなにより心配でした。

 その事件について、その後その弟本人もインタビュー等で触れているので現在ではなかば周知のことですが、当時、新聞記者から問い合わせがあった時には、私も初めて聞いたようなふりをして、『それでも書くべきではないだろう』と言い聞かせました。結局、当時これは記事になりませんでした」