“二つの中国”に分かれた理由
野嶋:1867年、大政奉還により、江戸幕府は消滅しました。しかし、榎本武揚らが旧幕府軍の一部を従え、北海道に渡り「蝦夷共和国」を樹立しました。
結局、新政府軍によって1年足らずで蝦夷共和国は消滅しましたが、新政府軍が津軽海峡を超えて北海道に攻め込めなかったとしたら、江戸幕府の流れをくむ北海道の蝦夷共和国と、津軽海峡よりも南側の日本領土を明治政府が治める大日本帝国の二つが併存していたかもしれません。
台湾に逃れた中華民国、北海道に逃れた江戸幕府。一方は今でも生きており、もう一方は滅亡しました。ここからわかるように、政府というのは、逃げることができるのです。
──なぜ中華民国は台湾に逃げなければならなかったのでしょうか。
野嶋:1911年から1912年にかけて起こった共和革命(辛亥革命)により、中国では清王朝が滅亡し、共和制国家である中華民国が誕生しました。とはいえ、できたてほやほやの中華民国は非常に不安定で脆弱で、日本や欧米列強に食い物にされてしまいます。
その中で、中華民国をより強く、より良い国にしようという二大勢力が誕生します。国民党と共産党です。
この二つの政党は、思想的には片一方が資本主義で、もう一方は社会主義でした。水と油のような関係ですよね。当然、中国内は内戦状態となりますが、1937年に日中戦争が始まると、手を取り合い、同じ「中国」として日本と対峙しました。
そして、1945年に第二次世界大戦が終結し、日本が中国から出ていくと、国民党と共産党は戦闘を再開します。国共内戦です。この内戦で敗れたのが、中華民国という政治体制を主導してきた国民党でした。結果、国民党は政治体制もろとも台湾に逃げ込んだんです。
──中国の領土を分割して、半分を中国共産党が、もう半分を国民党が治めるということはできなかったのでしょうか。
野嶋:国共内戦時に、米国のトールマン大統領は自身の腹心で、後に国務長官となるジョージ・マーシャルを国民党と共産党の仲介役として中国に送り込みました。米国は、第二次大戦の戦後処理の時期に、中国が混乱することは好ましくないと考えたのです。
ところが、マーシャルはうまく立ち回ることができず、国共内戦の抑え込みは失敗に終わりました。ここで米国の作戦が成功していたら、中国には国民党と共産党の両党からなる政府が樹立していたかもしれません。あるいは、領土を分割してそれぞれの党が治める国家が樹立していたかもしれません。
ただ、中国共産党が治める社会主義国家と国民党が治める資本主義国家が誕生したとしても、その状態は長続きしなかったとは思います。もって3年といったところでしょうか。
中国は大国であった歴史を持つがゆえに、共産党にしろ、国民党にしろ、「一つの中国」という信仰を持っていました。二つの中国ができたとしても、その状態は好ましくないものだったでしょうね。
加えて、当時は権威主義体制と言いますか、軍国主義的な体制でした。本当の意味で、どちらが強いのか、どちらが中国を治めるに相応しいかという闘いは早々に勃発することになったと思います。