今年100回目を迎える箱根駅伝。その歴史には、戦時中もタスキをつないだ先人の思いが込められている(写真:共同通信社/代表撮影)

 2024年1月2日、3日に開催される箱根駅伝は、記念すべき第100回大会である。しかし、箱根駅伝が始まったのは大正9年(1920年)。つまり、2024年は箱根駅伝が始まって105年目だ。計算が合わない。

 昭和16年(1941年)、昭和17年(1942年)、昭和19年(1944年)、昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の激化により、箱根駅伝は中止に追い込まれた。昭和21年(1946年)の箱根駅伝も、終戦直後の混乱により、開催は不可能だった。

 ところが、不思議なことに、戦時下にもかかわらず、昭和18年(1943年)には箱根駅伝が開催されている。戦時中、一度きり復活した奇跡の箱根駅伝である。「戦時下の箱根駅伝」はどのようにして開催に漕ぎつけたのか、参加した学生たちはどのような気持ちで挑んだのか。『戦時下の箱根駅伝 「生と死」がしみ込んだタスキの物語』(ワニブックス|PLUS|親書)を上梓した、ノンフィクション作家の早坂隆氏に、話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

──「戦時下の箱根駅伝」が開催された昭和18年(1943年)頃には、長距離走を専門にする多くの若者にとって「箱根駅伝はすでに目指すべき憧れの舞台」であった、と書かれています。当時は現在のようなラジオやテレビの生中継のない時代だったにもかかわらず、なぜ箱根駅伝は短期間でそこまでの知名度の高い人気イベントとなったのでしょうか。

早坂隆氏(以下、早坂):まずは、ざっくり駅伝の歴史について説明します。

 駅伝は、日本発祥のスポーツです。日本で初めて駅伝の大会が開催されたのは、大正6年(1917年)のことです。

 この駅伝は、スタートを京都の三条橋、ゴールを東京の上野恩賜公園とし、東海道五十三次を走る非常に大きなスケールの大会で、関東組と関西組の2チームが勝敗を争いました。駅伝の象徴とも言える「タスキ」も、このとき初めて使われました。

 このとき、関東組のアンカーを務めていたのが、金栗四三氏です。2019年に放送されたNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』の主人公の一人ですので、ご存じの方も多いかもしれません。

 大正6年の日本初の駅伝は、成功をおさめ、かなり話題になりました。その後、いろいろな駅伝の大会が行われるようになりました。

 箱根駅伝が始まったのは、大正9年(1920年)です。箱根駅伝の誕生には多くの人がかかわっていますが、そのうちの一人が、先述した金栗氏でした。

 金栗氏らは、ロード(公道)でのレースこそ長距離ランナーの強化につながると考え、「アメリカ大陸横断駅伝」を構想しました。西海岸のサンフランシスコから東海岸のニューヨークまでタスキをつなぐ、という非常にロマンのあるスポーツイベントです。

 箱根駅伝は、アメリカ大陸横断駅伝実現のための前準備として始まりました。資金的な援助をしたのは報知新聞社で、自社の新聞でその結果を大きく報じた。これにより、徐々に箱根駅伝の人気と認知度が高まっていきました。

 また、今で言うところの陸上競技マガジンや月刊陸上競技のような陸上専門雑誌も、戦前からすでに存在していました。有力選手のインタビューが載っていたりと、今と同じような感じですね(笑)。

 このように戦前の時点で、箱根駅伝はかなり人気のある一大スポーツイベントにまで成長していました。毎年1月2日、3日には、沿道には多くの観衆が集まるようになっていたのです。「箱根駅伝が来ないと、正月が明けたような気がしない」という声も、戦前からあったようです。

 そういう状況ですので、旧制中学で長距離走を専門としていた若者の多くが、箱根駅伝に憧れを抱くようになったのは不思議ではありません。

──そのような人気イベントであったにもかかわらず、日中戦争の泥沼化により昭和15年(1940年)9月、翌年1月に実施が予定されていた箱根駅伝の中止が正式に決定されました。これについて、当時、早稲田大学の競争部員だった石田芳正氏は、戦後「致し方ないことだが、残念で仕方がない」と回想しています。このような捉え方が、当時の一般的な感覚だったのでしょうか。