電流爆破される大仁田厚。有刺鉄線電流爆破デスマッチはイノベーティブだった(写真:山内猛/共同通信イメージズ)

 2023年2月、プロレスラーの武藤敬司が引退した。同じ日に、同じリングで引退したもう一人の選手がNOSAWA論外だった。

 1995年のデビューから28年間、メキシコ、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアと、文字通り世界中で戦いまくり、インディーからメジャーまで、国内のあらゆる団体で活躍してきたNOSAWA論外。病院で「俺はあとどれくらいできますかね?」と聞いたところ、「まだやるの?死ぬよ?」と医師から言われ、引退を決意した。

 プロレスラーの中でもひときわ無鉄砲な人生とはどのようなものだったのか。『なぜ屋台村から東京ドームにたどり着けたのか? プロレス現地採用 〜VIVA LA VIDA〜』(徳間書店)を上梓したNOSAWA論外氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

懐かしい……「涙のカリスマ」大仁田厚の懐かしい写真の数々

──高校生の時に、後楽園ホールでダフ屋のおじさんから1000円で買ったチケットでプロレス団体PWCの試合を観戦し、後に師匠になる高野拳磁さんの試合を見て「この人みたいになりたい!」と思ったと書かれています。高野さんの試合から、何を感じたのでしょうか?

NOSAWA論外氏(以下、NOSAWA):試合を見て感動したというより、「こんな人になりたい」と思いました。2メートルある大男が目の前を通り過ぎて、そのいで立ちがとにかくカッコよかった。

 暇つぶしでフラっと入ったプロレスの試合を見て、本気でハマってしまった。ただ、試合に関しての感想はまったくありません。なにせ、この時点ではプロレスのルールさえ知りませんでしたから。「高野拳磁さんがカッコいい」「俺もあんな風になりたい」とにかくそれだけでした。

──高野拳磁さんにPWCへの入門を一度断られましたが、翌月にもう一度行ったら引き受けてくれたというお話が印象的でした。

NOSAWA:突然知らない人が来て、「入団させてほしい」と言っても、やっぱり取ってもらえない。そりゃ断りますよね。だけど、その時に断られたことはさておいて、俊二さん(高野拳磁の本名)に会えたのが嬉しかった。

 間近で向き合って、「やっぱりこの人カッコいいな」と思いました。その時に、入れてもらえるまで何度でもお願いに来ようと決めたのです。

 バイオレンスリベンジャーという覆面レスラーとして活躍し、PWCの広報業務も担っていた森谷俊之さんが仲介してくれたので、「ごめんね」と森谷さんから謝られました。僕は「来月もまたお願いに来ます」と言いました。

 翌月に来たら、入れてくださるということになって、あの時は本当に嬉しかったですね。

──「ちゃんとしたプロレスの技術を1回も教わったことがない」と書かれています。

NOSAWA:教えてくれる人がいないから、自分で覚えるしかなかった。人の試合を見て、見よう見まねで戦い方を覚えました。

 通常はもっと戦い方を教わるものだと思いますが、僕が最初に入った団体は道場もほとんどないに等しい状況で、試合前に会場で少し基礎体力を上げる練習をするくらいだった。

 当時はある意味厳しくて、基礎体力を徹底的に上げないと、技を教えてもらうなど先に進むことは許されませんでした。基礎体力の合格ラインに僕は到達していなかったので、セコンドに付き、先輩方の試合を見ながら感覚を身につけていくしかありませんでした。