筆者は、その指導員が知識を持ち合わせていないことに違和感を覚えたのではない。どんなに高名な指導者でも知らないことはあるわけで、それは仕方ないと思う。ただ、折角の質問に対して「そういうものだ」と答えてしまうのは、禅の修行僧相手ならともかく、遠く離れた日本のことを知ろうとしてくれる人との関わりを拒絶しているように思えた。また、あの女性が疑問に思ったのであれば、他の参加者もきっと理解できなかったはずだ。

 これだけ娯楽や情報が氾濫する世の中である。数日後、いや、数時間後には、その日に習ったことは全て忘れてしまうだろう。そして、こう思うのだ。「日本の文化は、結局よくわからない」と。相互交流の場のはずなのに、少なくない金額をかけて実施したこのイベントは、果たして何のためにやっているのだろうという疑問すら湧いた。

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 日本の外務省HPには「国際文化交流の目的は、文化を通じ各国民相互の理解と親善を深め、もって世界の平和と文化の向上に貢献することにある」と記載がある。筆者は日本と世界の文化に関心があるので、伝統文化を伝える催し物には国内外問わず積極的に参加しているが、その多くに共通するのが、自分の国(地域)の文化がいかに独自性を持つかのアピールばかりで、参加者が親近感や共感を抱くのが難しい、ということだ。むしろ、「自分の生活とは違う」「エキゾチックだ」と感じてしまい、世界の平和と文化の向上はおろか、相互の理解と親善を深めるところまで行きつかないのではないか(「まずは知ってもらう」ための広報活動として行う交流行事は否定しないが)。

 あの女性の不満げな表情は強烈な印象を伴って筆者の脳裏に焼き付いた。だが、ではどうすればより深く日本のことを知ってもらえるかについては、その時の筆者にはいいアイディアはなかった。

「日本の文化は独自」を強調する弊害も

 そうして時が経ち、2022年夏のある日、筆者と同じように伝統文化に関心を持つ知人と雑談をしていた折に、上述の出来事も紹介した上で、うまく言語化できない違和感について相談した。その時に、何の拍子か、「日本の物語を、何も知らない海外の芸術家に描いてもらったら、どうなるだろう」という問いが生まれた。

 それこそ桃から赤子が飛び出すように唐突に生まれたアイディアだが、考えれば考えるほど面白そうだ。それができたらさぞかし愉快だろう。実は、筆者が先のイベントに違和感を持ったのはもう一つ理由があった。それは、「日本の文化は独自だ」という表現の多用だ。主催者のスピーチでも、指導員の説明でも、「日本は独自に発展」「日本文化は他国にない~」という表現が頻繁に出現したのだ。

 これは一見、文化交流の醍醐味である「違い」を紹介する機会にはなるが、それが強調されすぎてしまうと、聴衆の立場に立ってみれば「私はあなたたちとは違うのです」と言われているように感じる。結果的に参加者が置いてきぼりになってしまい、相互交流になっていなかったのではないか。その点、この「Momotaro Project」は、海外の画家が日本の文化を深く知るのみならず、日本人もまた海外の伝統絵画を知るきっかけにもなる。

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