連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室になる前のこと。
家定の正室には公家から嫁いだ有姫がいたが、輿入りから7年後に疱瘡で死去。その後、2人目に迎えた寿明姫もすぐに亡くなった。
徳川家定は器量に乏しく病弱だった。世嗣(よつぎ)もいまだなく、幕府の役人らは早く跡継ぎをつくらなければと焦燥感に駆られていた。
そんな折り、幕府から島津家に「将軍家に嫁がせられる器量が良くて、健康で若い世嗣(よつぎ)を産める年頃の娘がいないか探している」という連絡が入った。
しかし、薩摩藩主・島津斉彬のところには、そうした娘はいなかった。
そこで斉彬は、家老に探させたところ、今和泉島津家の娘・一(いち)に白羽の矢が立った。
斉彬は、「忍耐力があり、大きな広い心の持ち主」「温和で人と接するのが上手く、将軍の正室にふさわしい」と、一(いち)を評している。
一(いち)は島津斉彬の養女となり、幕府には実子として届け出ると篤姫と改名。
徳川将軍の正室は、京の宮家や公卿出身など身分の高い家柄から迎えるのが慣例だった。
斉彬は篤姫の身分を高く見せるために、島津本家の養女で斉彬の娘とし、さらに慣例に従い、五摂家の筆頭である京の近衛家へ養女に出した。
当時、度重なる養子縁組は禁じられていたため、篤姫が分家の出身ということは極秘事項であった。
島津斉彬に託された篤姫の極秘任務
徳川家定の将軍就任が決まると、黒船の再来や外交問題が重なり、また、安政の大地震で家定と篤姫の縁談は延期に次ぐ延期で5年が経過。22歳でようやく将軍・徳川家定に嫁ぐことになる。
大奧のセックス・スキャンダル「智泉院事件」を裁き、その後、老中首座にまで上り詰めた阿部正弘。
米国から通商を迫られ、攘夷派の大名の声が力を増す最中、幕府の屋台骨を支えていた阿部老中だったが、篤姫入輿の半年後、38歳で急死。後任には彦根藩主・井伊直弼が大老に就任する。
篤姫には島津斉彬より、ある極秘事項の任務が与えられていた。将軍の後継者問題である。
幕末の混沌とした状勢の中、外国勢力が日本を虎視眈々と狙っている。