篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室になる前のこと。 家定の正室には公家から嫁いだ有姫がいたが、輿入りから7年後に疱瘡で死去。その後、2人目に迎えた寿明姫もすぐに亡くなった。 徳川家定は器量に乏しく病弱だった。世嗣(よつぎ)もいまだなく、幕府の役人らは早く跡継ぎをつくらなければと焦燥感に駆られていた。 そんな折り、幕府から島津家に「将軍家に嫁がせられる器量が良くて、健康で若い世嗣(よつぎ)を産める年頃の娘がいないか探している」という連絡が入った。 しかし、薩摩藩主・島津斉彬のところには、そうした娘はいなかった。 そこで斉彬は、家老に探させたところ、今和泉島津家の娘・一(いち)に白羽の矢が立った。