連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

春画を眺めて自慰に耽溺する女中。自慰行為は愛情ホルモンのオキシトシンが分泌され、優しい気分になったりストレスを緩和したりする効果がある

 アラビア語の「ハレム」は「禁じられた」 に由来し、禁制の場所。一般には夫人部屋の義となり、婦人ばかりの部屋を指す。

 トルコのハレムは有名だが、そのほか中東には、古くから一夫多妻制があり、こうした地方の王侯貴族の広い邸には、いずれも男子禁制の婦人部屋である「閨房(けいぼう)」にて、多くの妾たちを館に一緒に住まわせていた。

「閨房」の「閨」は、こもん、ねや、と読み、「閨」は宮中の小門、くぐりど、出入口、また、婦人、女性という意味をもち、「房」は、部屋、住居、をあらわす。

「閨房」とは、婦人の部屋、夫婦の部屋、または、夫婦関係、を意味する。

「閨閤(けいこう)」とは身分が高い女性を意味し、「閨秀」は学問・芸術にすぐれた女性、才能豊かな婦人をあらわす。

 一般庶民における閨房は夫婦の寝屋の意で、寝室、寝所、房室ともいう。

 古語で寝所は、「組所(くみど)」と呼ばれ、『古事記』にも「故(かれ・須佐之男命が)、其の櫛名田比売(くしいなだひめ)を以ちて(娶って)、久美度(組所・くみど)に起して(セックスして)、生める(産んだ)神の名は、八島士奴美神」とある。

 中国にも一夫多妻の習慣があり、妾には外妾と内妾とがあり、内妾は自家に妻と共に暮らしたのだが、その一夫多妻制が皇帝や王のレベルになったが後宮だ。

 後宮とは皇帝・国王の正室・側室・家族が住む男子禁制の特別な宮殿を意味する。

 秦の始皇帝の後宮はその数、宮女3000人。秦の後宮には秦の女性だけでなく、戦敗国の妃や姫たちもいた。

 紀元前91年頃、前漢の司馬遷が記した『史記』によれば、始皇帝は他国を打ち破るたびに、その国の王宮を模した宮殿を秦朝の首都・咸陽の北に造り、捕虜となった戦敗国の妃や姫たちを住まわせたとある。

 また、『後漢書』には、秦の後宮には滅ぼした六国である、「韓」、「趙」、「魏」、「楚」、「燕」、「斉」と自国「秦」の女性用にそれぞれ7つの宮殿が用意されたとある。

 秦が滅亡した後、前漢から後漢を経て、蜀、魏、呉による動乱の三国時代から、100年ぶりに中国大陸を統一した晋の初代皇帝・司馬炎。

 司馬炎にはこんな逸話がある。

 呉の滅亡により呉の後宮の宮女5000人を晋の都・洛陽の後宮に入れると、晋の宮女の数は1万人に達した。

 そのため、皇帝・司馬炎は、夜毎、どの女性を選ぶべきか迷うと、羊に引かせた車に乗り、羊が停車した部屋の女性と閨房をともにした。

 宮女らは、塩水を戸口前に蒔き、羊が好きな竹の葉を戸口にさして、羊が自分の部屋の前で留まるよう競ったという。

 美しい女性がいるクラブやスナックなどの水商売の入り口に、盛り塩が置いてあるのを見かけるのは、こうした所以からで、客が店の前で留まり、店に入るためのまじないでもある。