江戸城の巽櫓と大手門 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

歴史的にありえない?

 1590年(天正18)に徳川家康が入部した当時、江戸は葦原の広がる寒村で、城も粗末なものだった…という話が、巷間まことしやかに伝えられている。そんなことは歴史的にありえない、という話を、筆者はこれまでも方々に書いてきた。

 もちろん、これは歴史学研究者の皆さんもわかっていることなので、最近はだいぶ認識も改まってきたきたけれど、「寒村ボロ城伝説」はまだまだ世間に流布している。そこでもう一度、「伝説」が成り立たないことを、戦略論的観点からおさらいしておこう。

江戸城本丸西面の石垣と堀。家康が入部した頃は葦原の広がる寒村だったというが…

 江戸城を築いたのは太田道真・道灌父子で、1456年(康正2)頃のことといわれる。当時、関東を支配していた体制は享徳の乱によって古河公方と関東管領とに分裂し、内戦状態だった。管領方の武将である道真・道灌は、対古河公方戦線の要を担う戦略拠点として、江戸城を築いたのである。

 その後、南関東では管領上杉氏の勢力が後退して、小田原北条氏の勢力が伸びてくる。江戸城も1524年(大永4)には北条氏綱の手中に落ちて、以後は北条氏の有力な支城となった。1590年(天正18)の小田原の役に際しては、江戸城も北条氏の他の城と同様、籠城態勢を取っていたものの、徳川軍の侵攻を受けて投降開城し接収された。

 以上が、戦国時代における江戸城の歴史のあらましであるが、「寒村ボロ城伝説」が成り立たない理由は、以下の3点に集約できる。

家康が入った頃の江戸城はどのような姿だったのだろうか

1.江戸城は戦国時代を通じて一貫して重要な戦略拠点であったこと

 実は、享徳の乱の時に戦略拠点として築かれた城の多くは、戦国時代を通じて重要拠点として使われつづけている。武蔵の河越城や岩付城・松山城・鉢形城、上野の太田金山城や下野の唐沢山城などで、このうち江戸城・河越城・岩付城は、引きつづき近世城郭となっている。

 これは偶然ではない。上記の城はいずれも、交通の要衝に立地しているからだ。交通の要衝に置かれた戦略拠点は、人員や物資の移動・集散ポイントとなる。また、城には常に守備兵が駐屯しているし、作戦の展開次第で大部隊が駐屯することもある。

 そんな場所は、商人や物流業者にとってはビジネスチャンスだし、武具や日用品の需要も多いから、職人も集まってくる。結果として城下が繁栄すれば、物流ルートも城を中心に再編強化されるから、相乗効果で城の戦略的価値も高まる。

鉢形城(埼玉県)は戦国初期に長尾景春が築いてから一貫して北武蔵の要衝であり、北条氏邦が居城とした