江戸っ子は身の丈の労働だけで生活

 蝮さんの例を挙げて回り道しましたが、要するに「落語家ならば、物事をすべて面白く解釈してみろ」ということなのです。

 つまり、この本に通底するのは、まさに仏教の「如是我聞(にょぜがもん)」。「私はこう聞いた」ならぬ「私はこう読んだ」というスタンスで『資本論』に立ち向かおうというわけです。

「つまらない正解」より「面白い超訳」になるかもしれませんが、正解を知りたい方は監修の的場昭弘先生の本をお買い求めください。

落語で資本論 世知辛い資本主義社会のいなし方 』(著:立川 談慶、監修:的場 昭弘、日本実業出版社)

 さて──。

 冒頭の『資本論』を象徴するような難しい文章に立ち向かうためには、思考の抽象度を上げる必要があると思います。

『池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」』(集英社)をひもといて、抽象度を上げて読み直してみますと、要するに、使えば使うほど増えてしまう魔法のような商品こそ、労働力なのです。そして、それを利益として得られるのは、資本家だけということなのではと思います(多分)。

「マルクスの言いたいことは何だったんだろう」ということに、常に思いを馳せ(忖度し)ながら読んでいくと、朧気ながらじわりとその骨子が見えてくる──。『資本論』とは、そんな書物なのかもしれません。

 知らずしらずのうちに、みずからの労働から利益といううま味を吸い上げられることを「搾取」と呼ぶのだと思います。工業化が進展する前の江戸時代は、資本家という存在はいまだ生まれていませんでしたので、江戸町人たちは、自分が稼げる身の丈に合った労働だけで生活していました。

「座って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という感じで、身の丈に合った稼ぎで、身の丈に合ったスペースとご飯の量(二合半)だけで暮らし、経済を回していたのです(無論、その背後には地方の農民たちに課せられた地獄のような年貢があったことを認めなければなりません)。

 だからこそ、身の丈以上に稼ごうとしたり、カネを貯め込もうとしたりした人間を、本能的に毛嫌いしたのでしょう。「カネを使う=身銭を切る」という行為を前提にしないと、江戸の経済が回らないことに、皮膚感覚で気づいていた証拠かもしれません。

 そういう実践的な美学が職人らには根付き、さらには武士などにも持てはやされます。