子どもだけではなく、大人にとっても、スマホはいまや生活の「必需品の一つ」になっているように思われる。大人のなかには、自転車に乗っても、ご飯を食べるときも、スマホを見ているものがいるのだ。
高橋源一郎氏は結論としてこういっている。
「世界はもっとずっと豊かで広い。そのことを彼らに伝えねばなりません。そんな世界の『ありか』をあなたは知っていますか? それを、彼らに自信を持って指し示すことができますか? 親であるわたしたちこそ試されているのだと思います」
自分で気づくしかないのでは
いやいや、たしかに「世界はもっとずっと豊かで広い」。だがあまりにも正しいがゆえに、無意味、という気がする。総論賛成、ただし各論なし。
「豊かで広い」ということがなにを意味するか、知っている大人は少ないのではないか。その「ありか」を知っている大人はもっと少ない。そのことを自信をもって子に伝えることができる大人はさらに少ない。わたしは早々に失格である。
スティーブ・ジョブズは、自分の子どもたちのデジタル機器を使う時間を制限していたという。スマホもテレビやゲームもおなじで、こんな「時間制限」という凡庸な方法しかないのである。そして禁酒禁煙とおなじで、何度も約束は破られる。だったら何度も約束しなおすしかないのだ。
「世界はもっとずっと豊かで広」く、世の中にはスマホなんかよりもっと「素晴らしいもの」があると、子どもに伝えることは難しい。われわれにしても、興味のないことはいくらそのおもしろさを力説されても、興味をもてないことは山ほどあるではないか。それにスマホ以上の「素晴らしいもの」を見つけたとしても、それとスマホの二者択一の問題ではない。
ほんとうは、なにかをきっかけに、子どもたち自身が、自分で気づき、自分でコントロールしてくれることが一番である。「世界はもっとずっと豊かで広」く、スマホなんかよりもっと「素晴らしいもの」があると。あるいは、なんで自分は四六時中スマホを手にしているのか? こりゃいかんな、と自分で気づいてくれることだ。
親や教師などの大人にいわれることが嫌なら、自分で自分にいうしかない。自分で気づき、自分で自分に約束するしかない。たぶん何度でも破られるだろう。ならば何度でも約束しなおせばいい。高校生くらいになれば、できるだろう。
もちろんこれは「高1」の娘さんだけのことではない。20代でも30代でもいい。50代、60代のことでもある。もしできないのならしかたがない。小便をするときも手放せないおやじ(実在する)のように、自分の生活をスマホに支配されるスマホ奴隷として生きていくしかない。